8/13日記(『ハイキュー!!』ネタバレ感想)

 え、『ハイキュー!!』? 本当に? バレーの授業サボって空き教室でかっぱえびせん食ってたお前が???? 高校のバレー大会後、腕が紫色に腫れ上がって保健室行ったお前が??????? という感じではあるが、古舘春一『ハイキュー‼︎』の感想を書くことにした。きっかけは4月のDMMブックスのセールである。私ももちろんその恩恵に与ったわけなのだが、買ったのは藤本タツキチェンソーマン』全巻、ミン・ジン・リー『パチンコ(上)(下)』(名作、最高、みんな読め)である。『ハイキュー‼︎』は買ってない。というか『ハイキュー‼︎』は、バレーボールに打ち込む高校生たちのキラキラした青春を描く王道スポーツ漫画であり、どう考えても私が好んで手に取るタイプの漫画ではない。そもそも私がちゃんと読んだことのあるスポーツ漫画は少なく、松本大洋『ピンポン』と野田サトル『スピナマラダ!』程度である。

 

 ではなぜ『ハイキュー‼︎』を読んだのか?
 それはDMMブックスのセールで『ハイキュー!!』を全巻買ったフォロイーのツイートがきっかけだ。オリンピック反対派だったはずの彼女が「まずい ハイキュ読んだせいで、今年は無理でもいつか有明でバレーやって欲しくなってしまう…」とか言い出したのである。お前、五輪に関しては昨日まで「中止だ中止!」とか言ってる『AKIRA』側の人間だったじゃん!!!!???? 人間の考えが1日でこんな真逆に変わることある!???? と衝撃を受けたわけだ。

 さらに他のフォロイーからも「隣のチームのリーダーがメンバーにハイキューをおすすめした結果、そのメンバーのモチベーションが急激に上がって圧倒的成果を出し始めました。ハイキューはすごい。」とリプライがあり、そんなヤベー漫画なの? と思ったのです。

 

 そういう経緯で『ハイキュー‼︎』を読み始めたわけだが、この漫画、少し読むだけで尋常じゃなさがすぐ分かる。なんというか、読者を惹きつける引力をもってる。

 まず言及しておきたいのは、本作の初めのフックとなる速攻である。運動神経が抜群に良いのに体格に恵まれなかった日向翔陽と、才能にあふれるが独善的なセッター・影山飛雄がこの話の主人公だ。日向は相棒を信じ、目を閉じてめいっぱいに飛ぶ。飛んだ先には影山がトスを上げている。影山の精度と自分のスピードで、何ものにも邪魔されず、日向はボールを敵陣に叩きつける。超人的な速さでの速攻が実現してしまうわけだ。そこから2人の運命が動き始めてしまう。
 ここを読んだ瞬間、私の中で『見る前に跳べ』は大江健三郎から『ハイキュー‼︎』に変わった(???)。大江健三郎の主人公は結局跳ばないけど『ハイキュー‼︎』は徹頭徹尾跳んでるし。まさにleap of faithそのものであり、読者としては「これは……」と期待せざるを得ない。そのあとの展開で日向が飛ぶ時に目開けるかどうかでモメるのも、盲信をやめて自分で立つメタファーを感じて「うっわ、最高、良すぎかよ……」と思った。
 そういうわけで、結構素直に感動して後半の展開とかずっと泣きながら読んでたので、「文化系のお前は引きこもって大人しく和山やまとか宮崎夏次系でも読んでな!」などと思わずに話を聞いて欲しい。


1.語りと表現
 冒頭の何話かを呼んで、すぐに気づいた。この漫画の何よりも強い武器は、「語り」と「表現」だ。

 本作を読むときに、まず目を惹くのは表現の巧みさだ。本作ではアングルがとにかくめちゃくちゃ動くし、解説が少なくなる場面もある(こうしたスポーツものでは狂言回しのようなキャラクターが試合の解説をすることが多い。『ハイキュー‼︎』でももちろんそうしたキャラが複数名登場するのだが、ここぞという場面では説明的な台詞は極力抑えられている印象だ。多分画面上のスピード感を優先してるんだと思う)。でもすごく分かりやすい。
 私は漫画の表現を読み取るのが非常に下手な上にバレーボールのルール自体もよく知らないのだが、そんな人間でも試合で何が起きていて、誰が得点して、試合の優勢がどっちなのかということがすぐに理解できるのである。これにはかなり驚いた。全部の漫画この人が描けよと思ったくらいだ。

 ハイキューの画面が理解しやすく、スピード感を持って読める理由はたくさんあるけど、その理由の一つが描き文字だと思う。
 例を挙げる。おそらく、本作で最も多く言及されている有名なコマはこれだろう。

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古舘春一『ハイキュー‼︎』15巻, 集英社, 2015, 第134話 「お互い様」P178-179

 どうだろうか。このコマはセッター2人が瞬時にスイッチしてチームが臨戦態勢に入った瞬間を描いてるのだが、描き文字に矢印を加えることで2人がそれぞれどちらへ動いたのか明確に表している。文字の字形は視認性が高くシャープな輪郭であり、表音文字が持つ鋭さや勢いを殺していない。また、本作の大部分ではごく一般的なオノマトペが使われていることも読者の直感的な理解を助ける。残念なことに私は漫画表現を読み取るのがとても苦手なので、めちゃめちゃ読みやすい『ハイキュー‼︎』においても見落としてる部分がたくさんあると思われる。そういうわけで、こうした漫画表現に関して私自身が改めて何か書くのは割愛し、優れた他の批評を紹介するに留めたい。

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 さて、ここまで表現について書いてきたのだが、語りについても書く。

 理由は知らないのだが、スポーツ漫画の主人公は多少駄洒落めいた形で名前に何かのイメージを纏っていることが多い。桜木花道、星野裕、日向翔陽、あとは黒子テツヤ大空翼上杉達也など。これについてはスポーツ漫画に知見のあるフォロイーから、「おそらく子供たちに覚えて貰いやすくするためでは?」と教えてもらったが。

 こうした識別子っぽい名前から、私はスポーツ選手の背負うビブス(ゼッケン)を連想する。例えばセッター、ミッドブロッカー、リベロみたいな、盤面での役割を付与されてる感じもある。記号的、というか。率直に言うけれど、私はこの辺をかなりグロテスクに感じる。登場人物は動かされる盤面のコマにすぎないと気付かされてしまうからだ。仕方ないことではあるが、どういう展開を書きたいからこのキャラクターを出す、というのが見えすぎてしまうと入り込めないのである。

 だけど本作の作者は、キャラクターの一人一人をコマみたいに雑に処理していない。とりわけ負けや失敗をとても丁寧に扱っている。「『ハイキュー‼︎』は勝者側のみでなく、敗者の気持ちも掬い取って丁寧に描写している」という指摘は非常に多い。

 例えば第40話『勝者と敗者』においては、烏野と戦って負けるチーム側の心情がクローズアップされている。これには作者・古舘春一がバレーボール経験者であることが大きく影響しているのだろう。作者はその経験をもって、敗北を非常に鮮やかに描く。

 

 この特徴を以て、本作は登場人物全員に焦点を当てているという指摘は多い。この物語はバレーボールプレイヤーの証言集としての性格を持つ。日向が成長し、バレーボールプレイヤーとして大成するまでを描いた物語ではあるのだが、本作はバレーボールそのものに強くフォーカスしている漫画であると言える。

 で、その語りだけでなくてそこに漫画表現が加えられたときがすごい。

 例えばインターハイ出場をかけた青葉城西高校(影山の因縁の相手・及川徹がいる、ちなみに彼は最初のボスという感じで登場する)との試合だ。ここで日向が負けた後の表現がかなり良い。
 接戦の末、烏野高校は僅差で敗れる。チームは悔しさを滲ませつつも、整列、握手、挨拶と試合後のルーティンを淡々とこなす。チームのコーチは、部員たちの心に響かないと知りながら励ましの声をかける。チームメイトに向け、日向は何かを言おうとするが、その声をかき消すように吹き出しの上から「ガララララ」という大きな描き文字が入る。まるで余韻を切り裂くように。次の試合のために新しいボールを乗せたカゴが運ばれてきたのだ。そして即座に次のチームが声を出しながら入ってくる。

 この数コマの表現とナラティブだけで、「次の試合が始まる」「あんなに白熱した戦いは終わり、その余韻は会場から消え去っている」「もうこの場にいられない」という状況を示し、敗北した現実や辛さ、そしてそれをすぐに飲み込めないことすらも全部表現してくるわけである。このように、経験者ならではの「語り」──敗北のリアルな手触りと、漫画表現が見事に噛み合っているわけだ。まるで主人公2人の繰り出す速攻みたいに。
 あ、これはすごい、これは胸を打つわ、と素直に思った。日向のセリフがかき消されるコマはめちゃくちゃ良すぎて壁に飾りたいくらいなので適切なやり方で引用したいのだが、ジャンプのアプリでスクリーンショット撮ったらBANされるのでやりません。
 引用します。『ハイキュー‼︎』全402話の中でこのコマが一番好き。

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古舘春一『ハイキュー‼︎』8巻, 集英社, 2013, 第69話 「敗者」P135


2.呪い
 一方で主人公コンビは、ある種の生贄としても描かれている。影山は登場時点で完全にバレー以外の要素が切り捨てられていて、日向の方もコートに立つということに執着する狂気性が繰り返し描かれている。このクリシェは単に勝利への貪欲さの表れでバレーボールという競技に対する素質の提示だと思ってたのだが、これがあまりにも繰り返されるので次第に「あれ、こいつマジで狂ってね?」という感じになってくる。
 だから日向は狂人だと思って読んでたのだが、鴎台戦の前あたりから彼が躁状態に陥って、そのキマり具合や多幸感が妙にリアルで、「は?少年誌でこんなことになんの?一体何を見せられているんだ?」と不安になった。因みにこれは日向が発熱して退場するという伏線だった。

 日向の運命は、この春高での敗北後に決定づけられてしまう。
 動き続けた日向は高熱で倒れ、退場を余儀なくされる。退場を渋る日向に、顧問の武田は「今この瞬間もバレーボール」だと言う。これは呪いの言葉でもある。だから日向は本当に全部をバレーボールにしてしまう。これは、いわば狂人が道理を得た回だ。
 終盤のブラジル修行編で身も心もバレーボールのために捧げているシークエンスは、日向が生贄になっていくようで結構怖かった。修行編と並行して一巻を再読すると「取り返しのつかなさ」がエグすぎて読めなくなる(でも私はこの手の狂気を持つ人間が大変好きでもあるので正直に言って「ようこそ…………!」とも思いました)。

 ブラジル修行のあと、日向は日本に帰ってくるわけなのだけど、ここからは完全にボーナスステージだ。いわゆる「強くてニューゲーム」である。
 ここでプロになった日向と影山の再戦をひたすらにかっこよく描き、その上でオリンピックがやってくる。物語は、日本代表となった2人と青葉城西にいた及川(帰化し、アルゼンチン代表になっている)との戦いで幕を閉じる。一周回って初めのボスとまた戦ってるわけだ。この漫画は「負けたら終わり」とか言って人生の一回性を繰り返し強調してんのに、何故かセーブできたりコンティニューできたりするゲームのモチーフがやたら出てくるので「なんでかな?」と思ってたのだが、こういうことだったんですね!と思った。

 ハイキューのあまり好きじゃない点は作画上の語りが時々過剰すぎるところだが、最後ではそれも抑えられ、すべては読者側に委ねられている。最終巻のオリンピック初戦で、最後に飛んだ日向の眼にネットが映るのを抜いたショットを見てほしい。描かれてるのはこれだけだ。他に何も語られないけど、ここまで読んできた私たちには分かる。日向が頂の景色を見てるのが。これはかなり粋で、好きな演出だ。


3.余談

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古舘春一「ハイキュー‼︎」第294話 ゴミ捨て場の決戦『週刊少年ジャンプ 201815, 集英社, 2018


 『ハイキュー‼︎』は引用もうまい。『風神雷神図屏風』の構図を引用した294話の扉絵が大変好き。雷神側の田中冴子が持つ和太鼓に対して、風神側・山本あかねには風袋のかわりにスピーカーを持たせてるのが良い。選手じゃなくて応援席の女子がメインなのも気が利いてるなって思う。山本あかねがセーラー服姿なので、会田誠『美しい旗(戦争画RETURNS)』の方もちょっと連想した。ちなみに、こっちに似た構図の扉絵もある。
 あと、角川学園戦で日向が2mの選手にブロックアウトかますシーンには、ゴリアテの頭をスリングで撃ち抜いたダビデっぽいニュアンスがある。ジャイアント・キリングってやつだ。

 登場人物について。谷地仁花については思うことがかなりある。はじめこの子は都合の良いmanic pixie dream girlにしか見えず、バレーに関わるというよりはヒロインとして日向の"主人公性"を担保するために生まれた存在に見えたので、「うーん……」と思ってた。けど、なんか特にそういう方向にも行かず、他のキャラクターと同じくバレーボールに普通に関わってちゃんと成長して自分の選んだ道を行ったのが意外だった。
 この漫画に出てきたたくさんの伏線はほぼ回収されているのだけど、登場時に仄めかされた彼女と日向の関係性についてはなぜか特に何もなかった。でも良く読んでみたら、この人ってもしかするとプロト版の日向から再構成されたキャラクターなのかも知れない。元々同一人物だったのであれば、この2人はシークエルがあるならやっぱりくっつく方が収まりがいいのかもしれないな?とか今なら思う。けどまぁ日向は生贄として描かれてるから無いかなという気もしますね。

 他にも、強豪校になったはずの烏野高校の様子がさほど変わってなかったり黒髪になった烏飼繫心が相変わらず二足の草鞋だったりするのはこの場所が「無い無い島」的な、誰にも触れない神聖な世界になってしまったからなのかなとか(この話、きょうだいや祖父母はよく出てくるのに親があんまり出てこない。谷地仁花が入部にあたって母親に「大きな道路の向こう側から」マネージャーになることを宣言するシーンは「この場所と親たちがいる世界は分断されている」という印象で結構示唆的。彼女には他にも、合宿の時にまるで生き別れた母親へ手紙を書いているようなモノローグもある。高校卒業後に彼女が母親の会社でバイトしてる姿は、「冒険を終えて大人になり、親元に戻ったウエンディ」という感じもする。あと、日向の造形はまあまあピーターパンっぽい)、菅原孝支(経歴が完全に烏飼+武田をなぞっている)ってコーチ側にならないんだ!?いや、教職に就いたのは今後そうなるための伏線なのか?とか、登場人物の名前に仁義忠孝全部あるやんけ……儒教的!!!とか、高3時のIHの結果だけが書かれてないのは……もしかして?もし主人公変えずに新展開あるとしたらこの時期か?など、感想未満の瑣末なことをいろいろ考えたけれど、とりあえずこの辺で終わりにします。

 

「バレーボールは面白い(と証明しよう)」という言葉は、本作のキーセンテンスとして形を変えて何度か登場する。これはオーラスの締めにバンッと出てくる言葉でもある(一応文脈をおさえておくと、この台詞の初出は全日本の監督・雲雀田吹であり、その直前には「『日本、高さとパワーの前に破れる。』なんて決まり文句はもう古い」という台詞がある。つまりこれは、今後日本バレーに求めていく、プレーの多様性についての宣言だ)。

 でも主人公コンビをはじめ、バレーボールをただひたすらに追いかける選手たちにとっては「バレーボールは面白い」とは当然のことでしかない。それを改めて考えるまでもないし、誰かに証明する必要もない。しかしあえてこの漫画はこの言葉を繰り返す。それは、これが作者の強い想いだからだと思う。

 

 

7/21日記(『ルックバック』ネタバレ感想)

 2021年にこの物語を読むとき、「京アニ事件」と「マンチェスターのテロ犠牲者追悼集会でのDon't Look Back in Angerの合唱」のことを連想する人は多いのではないだろうか。あまりにも鮮烈で、悲しく、やるせない、そういう事件とそれに手向けられた想いのことを。
 そしてこの物語の後半部分には、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』からの大ネタの引用がある。この物語からはそのほかにもたくさんの引用も背景も見つけることはできるし、私は本来そういう読み方をしてきた人間ではあるのだけれど、なんだかそうしたものを見つけてすべて挙げていくような語り方をしたくないと思った。少なくともこの物語については。

『ルックバック』は、2人の友情の物語だ。そして、2人の思い出の。そしてその思い出は誰にも奪えないのだ。

 藤野と京本(「京」本だ)、2人は偶然同級生として出会う。
 引きこもって絵ばかり描いていた京本は、知らないうちに絵が得意な藤野を挫折させている。その圧倒的な画力により。奮起した藤野は、彼女なりにいろいろを犠牲にして努力を続ける。この努力を続けるシーンで、机に向かう藤野の背中の連なりが描かれる。ただひたすらに、孤独に、淡々と彼女は描いている。増えていく参考資料やスケッチブックが、彼女の真剣さや努力を物語る。だがそうまでしても全く京本の絵には及ばないのを知り、藤野はある時漫画を描くのをやめる。
 でも運命の悪戯で、2人は出会い、分かり合ってしまう。
 京本は部屋を飛び出して、藤野にファンですと伝える。藤野が何となく描いた四コマ漫画のせいで。
 この後に藤野が踊る理由、物凄く分かる。私にも似たような経験があるのだけど、自分がその背中を追いかけてた人から100%の熱意で100%信じられる称賛の言葉を貰えるというのは、頭が狂っちゃうんじゃないかと思うくらいうれしい。とても浮かれたくなることだから。

 そして2人の友情と、創作を巡る冒険が始まる。藤野のそばに、机に向かう背中がひとつ増える。

 全力でやったものが評価されないこともあるし、されることもある。誰かのなんてことない行動や言葉が心を救うこともある。
 2人は漫画家としてデビューする。その賞金を握りしめて遊びに行く2人の小さな冒険は、ありふれていて、なんでもなくて、そして死ぬほど美しい。友達がそばにいれば人間は、たった5,000円使っただけでもこんなにハッピーになれる。
 そういう何気ない日常、2人で獲得した輝かしい成功。それらは2人には同じように大事なのだ。社会が個人につける価値なんて本当はどうでもいいことなのだ。愛して認めてくれるたったひとりがいれば。
 だって漫画家としてデビューして成功したシーンよりも、2人がはじめて言葉を交わして分かり合った日の、雨の中での藤野のダンスの方が100万倍美しくきらめいてる。

 そして2人は袂を分つ。京本は美大に進学し、藤野の方は漫画家「藤野キョウ」として成功する。ただ必死に机に向かっていたころ、棚に参考資料やスケッチブックが増えていったように、『シャークキック』の単行本が棚に増えていく。でも、お互いがいなければ彼女たちの今はなかった。その「今」というものには、京本の死も含まれてしまうのであるが。
 最悪なことに、京本は殺されてしまう。すごい理不尽な暴力で。

 京本の葬儀。自分の四コマが、京本が部屋を出るきっかけを作ったことを、藤野は後悔する。
「描いても何も役にたたないのに……」
 でもここから『ワンハリ』のような痛快な改竄がはじまる。
 藤野は自らがヒーローとなり、大量殺人者に襲われる京本を救う。創作をする者は時折こういうどうしようもない妄想をしちゃうと思う。こういうシーンは『風立ちぬ』とか『この世界の片隅に』でも見た。

 我々は空想の中で誰かを救える。でもそれがいったい何になるって言うんだ?と、創作者は考えるのだろう。ただの虚しい慰めではないのか?と。
 でもそういうことじゃないのだ。
 空想は終わり、藤野は床に京本の創作を見つける。その四コマ漫画は、明らかに藤野の作風に影響されている。これはすごい重要なことだ。だって2人が出会ってなかったら、背景ばかり描いてた京本にはこんなもの描けなかった。そしてそのタイトルはこうだ。
「背中を見て」
 藤野は京本の部屋に入る。窓にはたくさん貼られた四コマ漫画が風に揺れていて、その中にひとつだけ剥がれた跡が見える。「背中を見て」はどうやらそこから飛ばされたものらしく見える。
 そして藤野が描いてきたものがそこに並んでいる。離れたって京本はずっとそばにいてくれてたのだ。
 藤野は振り向く。そこには京本が着てた半纏が掛かっている。
 その背中に、藤野の名前がある。それは出会った日に藤野が描いたサインだ。

 記憶は我々を作っていて、それは絶対に奪えない。生命を奪われたり、データをもし削除されたら記録としては消えちゃうかもしれないんだけど、それは本質的じゃないと思う。誰かがいて、誰かと過ごした。そこに事実は残る。事実を記録する媒体は別にディスクやメモリや脳だけじゃない。不壊性の話をするとすれば、現象の世界で「死」が訪れても、時空に制約されない部分で人の本質は壊れない、みたいなことも言えるのかもしれない。
 そして過去は我々を作っている。誰かとのやりとりの小さな積み重ねは我々も気づかないうちに、人格や行動に作用している。もしあの日誰かに会ってなかったら、今この日の「私」はないのだ。もしあの時藤野が京本に出会ってなかったら、彼女は藤野「キョウ」じゃなかった。彼女の一部を、確かに京本は作った。そしてその事実を、死や暴力は決して奪えない。

「背中を見て」を、藤野は仕事部屋に貼り、そしてふたたび仕事をはじめる。そのシーンで物語は終わる。

『ルックバック』はとても拡散されていたから、Twitterで面白いことが起きていた。TL上でそれを読んだ多くの人々が、もう会えない人と自分の思い出をぽつぽつと投稿してたのだ。それぞれの極めて個人的な記憶なのだろうけど、それはどれもすごい美しかった。
 優れた物語はナラティブを誘発する。感傷的だとか若気の至りだとか恥ずかしいとか言って、自嘲的に語ってた人もいたけど、でも私はそれぞれがそれぞれの大事な人を想ってると分かって本当に良かったと思った。これは証明じゃないだろうか?だってみんな忘れてなんかない。死や別離なんてものは全然みんなから大事なものを奪い去ってなんかないじゃん。
 私にも2度と会えない大事な友達がいる。その人はもういないのだけど、でもその人と会って人生のわずかな時間を一緒に過ごしたことは、なかったことなんかに絶対ならない。
 だからやっぱり、死や別離や暴力は、我々から本当に大事なものを奪えはしないと思うのだ。

 

shonenjumpplus.com



余談
 薄井さんがパワーちゃんの絵を描いてくれたからみんな見て。すごい良い絵だから。本当はチェンソーマンの感想のほうに載せようと思ったんだけど、なんか本当に一刻も早く見てほしかった。

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7/12日記(ヌルツバイさんの絵について)

 ヌルツバイさんというフォロイーのクラゲさんがいて、理由は知らんが日々Twitterに「おやすみ」の絵をアップしてるのだけど、私は非常にその絵が好きである。

 で、絵の数がある程度たまってくると、まとめてコメントを添えて引用RTするという迷惑行為を勝手にやっているのだけど、それを続けてるうちに絵全体の感想を書きたくなってきたので書きます。あと、この文章は別に宣伝とかじゃないんだけど、ここからヌルツバイTシャツが買えます。

suzuri.jp

 

 端的にヌルツ絵の魅力を語ると、絵の中に確立された世界があるということに尽きる。

 私は絵とかイラストには全然明るくないんだけど、ヌルツ絵はなんかちょっと構図とか題材が変わってて面白い。一般的なかわいいイラストには描かれてないような場面を切り取ったものが多い。その世界に描かれるものはその日のTwitterで話題になったものだったり、昼間の会話に出て来たものだったりする。よく分かんないんだけど、テーマとかは結構場当たり的に決めてるのだろうか?

 私は何かを見るとついその背後にある文脈や引用やナラティブを探してしまうのだけれど、ヌルツ絵の中にはそれがたくさん見つかる。で、それが全て計算によるものでは無さそうなところに好ましさを感じている。パロディ的な表現も多くある。そしてそれが、引用の活用だとか、本歌取りだと言い切るには血肉になってるというか、彼女が見て来たものが無意識に滲んでる感じがとても好きだ。

 

 私がこんな風に文章でぐちゃぐちゃとなんか言うよりも、ヌルツ絵を見てもらった方が早いしいろいろ伝わると思うのでさっさと引用します。

 まあ例えばこれなのだけど。

  日本に産まれてしまってその文化を享受してる我々のほとんどは、この絵の向こうにラッセンを見てしまうのではないか?

 2021年に「ラッセン的なもの」について言及するのは、複雑すぎてとても難しい。ラッセンの絵の販売方法には問題があったというし、ギラギラしたアレをありがたがって良しとする者には審美眼がない垢抜けないイメージもある。まあでもなんていうかシーパンク的な文脈もあって、一周回ってカッコいい感じになってたこともあるっちゃあるし、ダサい/ダサくないを単純にはジャッジできない、というかするべきではない、そして今は多様性の時代であり……というか……でも……、

 とか、まあぐるぐる考えてしまいがちだ。

 

 でもヌルツバイ氏はラッセンを取り巻く何かに物申したくて描いたわけでも、ここにその手の批評性を持たせたいわけでもないんだと思う。なんかこういうのあったっけ?なかったっけ?自分なりに描いてみましたよ!かわいいね!って感じがする。で、本当にかわいいし楽しいしきらめいてる絵だ。まあ実際のところは聞いてないので分からないけど。なんかこの絵に社会に対するすげ〜批評性を持たせてるんだったらごめん。

 

 これも明らかに下敷きにしてるのはウィリアム・テルだ。なんで引用したのかよく分かんないけど、頭の上に矢を射られたウィリアム・テルの息子は確かにこういう放心した目をしてたことだろう。

 

 この絵からは偶像崇拝の虚しさを感じて「は?なにこれ……ヤバ!」って思ったんだけど、多分ヌルツさんはそんなん考えてなさそう。死んだ目のクラゲがスプラのヤグラっぽいものに乗った金のクラゲを担いでるよ!重そう!ウケるよね!くらいのテンションのような気がする。

 

 これも。なんか、「銅像の頭を平気で踏む鳥には、銅像になる名誉なんか分かんない。名誉なんか畢竟虚しいもの……ってコト?」とか思って「え………………、ヤバ……………………」って思ったのですが。まあこれはちょっと穿ちすぎたというか、自分の見かたが狂ってるだけのような気もするが……

 

 この絵からはローファイな、というか、ヴェイパーウェイブ的文脈を感じるのだが、ねえ!!!PICOってあったよね!!???覚えてる???みたいな感じなんだと思う(ほんと?聞いてないので分からない、違ったら訂正するから教えてください)。

 なんて言ったらいいのか、引用というには消化されてる感じがする。

 

 ラッセンウィリアム・テルと神輿の上の神具に、社会は序列をつけてしまう。

 でもヌルツ絵の中では、それらは題材になった何かでしかなくて、ほぼ平等なんだと思う。これらは「彼女が見てきたもの」という共通点を持ってるだけであり、絵の中で何かがとりわけ特別視されることはない。私はその、食べたものを満遍なく取り込んでなんでも栄養にしてる感じが好き。

 彼女の絵は窮屈でジャッジメンタルな見かたから自由でいながら、彼女の意図しないところでよく分かんない謎の批評性を纏ってる。とても不思議だ。

 

 ヌルツバイさんはちょっと特異な世界の見かたをしてて、それを絵を通して我々にも覗かせてくれるような感じ。なんだか分かんないんだけど、その絵に描かれたモチーフは、心のどっかに引っかかる。

 私がこんな長々と書いたものを読むよりも、ヌルツ絵を見てもらった方が全然いろんなことが伝わる。絵だけじゃなくて文字や余白の部分からも。そこには多分、言葉にはできない気持ちとか感傷とかきらめきみたいなのも含むんだと思う。

 

 これだけ文章を尽くしても伝わるか分からないものを、たった一枚の絵でパッと伝えられる彼女が羨ましい。

 

 

 

 

 

1/23日記(『ダブル』第二十三幕ネタバレ感想)

『ダブル』二十三幕について書きますね……。

 

 メインの2人の関係に恋愛が絡んできたことについては実はかなり驚いている。

 元々私は漫画を読むのが上手くなくて、理解にものすごく時間がかかるのだが、二十三幕は特に理解が難しい回だった。見せ場が多い回なのだが、何が起きてるのか全く読み取れなかったのだ。読み取れなさすぎてフォロイーに質問したくらいだ。

 

 例えばキスシーンである。

 フォロイーの読みでは「キスシーンの前後で2人の立場が逆転している」とのこと。確かに、感情を吐露する人物はキスシーンを境として多家良から友仁に変わっている。

 はじめはこのキスシーン、もしかしてBL的な文脈のサービスシーン(?)とかなのか?と思ったのだが、それにしては描写が暴力的すぎるように感じられた。友仁はまず多家良の喉仏に手をかけ、頸と後頭部を押さえ込み、噛み付くように引き寄せている。性的感情や恋愛感情が高まった末の衝動ではなく、どちらかといえば「殺意」とか「憤怒」とか、そういう方向性の衝動を感じる。なんというか、絞殺しようとしたのを直前で無理矢理キスに軌道修正したかのような……。

 

 で、問題は友仁のこの激昂をどのように読み解くかである。この怒りはどういう種類のもので、何に向けられたものなのか?

 

 『飛龍伝』に出てくる女たちについて、つかこうへいはト書きに「革命という男のロマンの中で永遠に裏切られつづけてゆく」と書いている。友仁はキスの後に「男の誠実に踏みつけにされるおんなの気持ち」が分かるか?と問う。多家良の誠実さーー「好きだ」と伝えることーーが、友仁を踏みつけにする。辱め、傷つけるのである。

 また、「サボりを叱って……」から始まる最後の友仁の語りは、友仁が自分に感じている存在意義や求めていたささやかな承認の告白だと読むことができないだろうか。友仁が「俺にはお前しかいなかったんだ」と呟くシーンで今話は終わっている。さらに彼は「お前に尊敬されたくて」とも言う。無名役者である友仁の自己肯定感情には「(天才役者である)多家良からの尊敬」が大きく関わっていた、というよりは「それしかなかった」ということなのだろう。

 

 そうなると、彼の激昂はみじめさ、失望、やりきれなさというものに根ざした、やり場のないもののように思える。「お前は俺とセックスがしたくて一緒にいたのか?」「俺に愛してほしくて芝居をはじめたのか?」と言う友仁は、俯いたまま多家良と視線を合わせない。その姿は傷ついているように見える。多家良が友仁を慕う理由が「尊敬」でなくて「性愛」なのであれば、多家良は純粋に役者としての自分を見ていたわけではない……と、友仁は受け取っているのだろう。お前、俺のような役者を目指してたんじゃないのかよ、と、裏切られたように感じたのかも知れない。しかし、もちろん多家良は友仁を裏切ったわけでもなく、彼の懸想が罪であるわけでもない。浮き彫りになるのは、「天才役者に尊敬されている」という状況にどこかですがっていた、無名で無力な自分の姿。みじめ、である。

 それでも最後のコマで、友仁は多家良の手を握りしめる。この夜を境に関係が大きく変わっても、つながり続けたいという意思があるからだろう。

 

 ところで黒津が多家良に貸した本は『熱海殺人事件』だ。ということは『飛龍伝』は『熱海殺人事件』所収のバージョンを読めということですね。借りてきます。

 あと、黒津は何を思って創元文庫版のフランケンシュタインを多家良に貸した?友仁と役者としての多家良は、フランケンシュタイン博士と怪物のような関係だと言ってるのだろうか……。怪物は作られた生命なので、『饗宴』で元はアンドロギュノスだった人間と違ってベター・ハーフがいないわけである……

 

 

 

 

12/25日記(『ダブル』第二十二幕ネタバレ感想)

 これから『ダブル』第二十二幕、ヘドウィグ・アンド・アングリーインチについての話をしますが……。してもよろしいでしょうかね……。

 

1.ベターハーフとして

 

「多家良と友仁の関係は変わってしまったのか?現在二人は互いにどのような感情を持って接しているのか?」という問いに、答えが半分出された。多家良は友仁を「好き」であるらしい。そしてこの「好き」は恋愛感情である。

 そしてこの回では『饗宴』からの引用があった。アンドロギュノスの組み合わせは、男と男、男と女、女と女という3パターンであるから、ベター・ハーフはLGBTsの恋愛をテーマにした物語でよく見るモチーフだ。『饗宴』は「共演」と同じ音でもありますね。

 

 

 Twitterにも書いたが、「この展開は残酷すぎる」というのが初読の感想だ。えっ、友仁はベター・ハーフとして多家良に取り込まれちゃうわけか????と思った。煽り文の「二人で一つの役者」という文章の通りに物語が展開し、友仁は友仁のままで「世界一の役者」にはなれないのか?

 ものすごく正直に言うと、多家良が友仁に見た魅力は純粋に「役者として」のものだけであって欲しかった、と思ってしまった。多家良は唯一、友仁の才能を知っているように描かれていた存在だからだ。

 まあ私はかなり友仁に肩入れしており、友仁オリエンテッドな読みをしているのは確かなのでこれは単なるエゴかもしれないのですが……。

 

 多家良が友仁を「好き」なのは分かったのだが、彼が友仁とどう関わりたいのかは不明瞭だ。多家良は誰かになりきって演じることでなにかを表現する能力こそ高いが、自分の言葉で何かを伝えるのは上手くない。そういう背景があるためか、多家良の言葉はかなり抽象的で読み取りにくい。

 私は、多家良が友仁と離れたのは、舞台で共演(繰り返しますが『饗宴』と同じ音です)したいがゆえに(想いが露見することで?)関係を壊したくなかったからだという理解をした。

 「友仁さんと同じ舞台で戦えるようになりたい」「友仁さんと板の上で生きたい」という言葉が、「友仁とずっと対等でいたい」ということなら、そこに希望があるように思える。多家良には友仁を友仁のままで認めていてほしいし、友仁には多家良と同じ板の上にいるのに相応しい役者になってほしい……。と、思うけれど……。

 

2.「半分のオレンジ」を食べろと勧める男

 

 今回も黒津にはイライラさせられた。メンターかのように多家良を導いているようではあるが、怖かったのは「鏡のようにまるきり同じ芝居をするのはどうだ?」というアドバイスである。まあ多家良はこの提案を「だめ」だと断るのだが……。

 多家良の芝居は友仁の演技プランを最後に「裏切る」ことで完成するので、本当に黒津の意見を実行すると友仁の演技は完全に食い荒らされる。天才が自分の演技を完璧に模倣してきて、その上で自分には到底できない演技を加えてくると思うとゾッとしないだろうか?多家良に友仁を潰させようとしていませんか……?

 

 黒津はチェーホフで卒論を書いてる左翼のインテリで、世界的な評価を得ている映画監督で、革命をモチーフにした映画を作り……と、非常にカリカチュアライズされてる感じがあるというか……ものすごく分かりやすい、古き時代からきたthe 巨匠みたいなキャラクターである。彼は友仁が乗り越えるべき壁の「役」なんだと思っていたが、どうなんだろうか……。

 黒津がもし今後も登場するのであれば、セクハラ・パワハラをしてるのになんとなく許されているのが非常にムカつくので、ぜひ友仁にはコイツを殴って欲しいなと思います。

 

11/25日記(『ダブル』第二十一幕ネタバレ感想)

 今回の話を読み終えて一番はじめに、友仁ってめちゃハート強いなと思った。思いませんでしたか?無名なのに人気俳優の九十九の代わりとして抜擢、有名演出家の元での初舞台。でもその演出家は自分を添え物としか見ていない。さらに、多家良が毎回インタビューで友仁についてめちゃ話してることも知ってる。それなのに旧知の友でもある多家良は友仁をどこか拒絶してるかのように見える……こんなの、普通の無名役者ならストレスとプレッシャーで押し潰されるんじゃないか?

 でも友仁はこの状況下で平然と振る舞い、稽古の際に(自分を添え物と感じているであろう)華江に臆せず意見している。で、さらにあっさりそれを通している。……強すぎる。並の胆力じゃない。

 

 経緯はどうあれ、元の場所にとどまってきた友仁は周りに押し流されるようにして多家良のもとに再び現れた。「仕事全然なくてさ」「飛びついたんだよ」「俺のために」などと、問いかけてきた九十九から目を逸らして露悪的なセリフを吐きながら。

 

1.友仁と多家良

 現時点で読者が気になっている最も大きな疑問は、「多家良と友仁の関係は変わってしまったのか?現在二人は互いにどのような感情を持って接しているのか?」ということだろう。でも、それについて考えるにはまだ情報が足りない。その前に今回提示された重要な疑問について考える必要があると思った。「多家良は友仁の演技のどこに惹きつけられてるのか?失敗と捉えられた演技のどこに多家良は惹かれたのか?」という点だ。

 

 友仁は過去の舞台で、小道具のナイフを忘れて手刀で殺すという失態を犯し、笑いものになった。しかし多家良はその舞台をきっかけに友仁に憧れ、役者を目指し始めたと言う。これはどういうことなのか?

 まあその理由は分からないのだが、この辺りの話は第二十幕での「世界一の役者」につながるように思える。

 友仁が囚われてる「世界一の役者」なるもの。友仁は、「多家良は 世界一の役者になるだろう」と言う。「なるだろう」ということは、今はまだ世界一の役者ではなく、その途上にいる、ということだ。では、「なる」ために必要な条件とはなにか?

 素直に考えたら「経験」「努力」「成長」「今以上の実力」あたりだと思う。しかし、友仁が言う「世界一の役者」の条件には「あぶくのような名声」とか「映像の大きな仕事」とか「100万のギャラ」とか「黒津監督直々のご指名」とか「高い評価」とか、そういうデカくて派手な「成功」、ひいては世界中からの「承認」が含まれている感じがする(業界人も一般人も、世界中が「世界一の役者はあの人をおいて他にいないよね!」という共通認識を持つようなイメージ。前回も指摘したが、そんなものはこの令和の時代において幻想だと思う)。 なにしろ友仁が初めて涙した多家良の作品は、世界的監督が撮影した有名ブランドの(100万のギャラがもらえる)CMなのだ。まあ「世界一の役者」の定義は明らかにされていないし、今後されるのかも分からないが。

 で、先述の多家良の考えは友仁の考えの対極にあるように思える。多家良はミスをした友仁の演技にどうしようもなく惹きつけられた。その理由は彼以外には分からない。そこには世界中からの承認などない。誰がなんと思おうと多家良にとって世界一の役者は友仁なのだ。「なるだろう」とかではなく、友仁なのだ。ただ多家良が良い、と思ったから、友仁は世界一なのである。

 友仁は派手な「成功」をしてない。なんの実績もタイトルもない。しかし、多家良は友仁に「世に出て欲しい」というような意味のことも言わない。ただ「友仁さんのジェイクイズが見たい!」と述べるだけだ。

 というか「世界一の役者」というアイディアすら多家良にはないのかもしれない。友仁は、ただただ多家良の一番なのだ。

 以前の感想で私は「多家良には世界一の役者になる以外の道はない」と書いたが、しかしやっぱり「世界一の役者」というアイディアは捨てるべきなのかもしれない。世の中にあるのは「成功」「失敗」の2つだけじゃないし。

 いずれにせよ、今後ダブルキャストの舞台についてがっつり描かれると思うので期待が膨らむ。冒頭の疑問についても何らかの答えが描かれるだろう。作者はこれまでも劇中劇とそれに伴う登場人物の心の動きをしっかり描いてくれているのだし。

 

2.友仁と華江

 ところでこのアークにおいて、我々はもうひとりの「代役」を見ている。岐路の「岐」を名字に持つ女性、華江だ。

「相手を思え 相手になるな」などと言いながら、彼女こそ夫になりかわり代役のように振る舞っているように見える(まあ内心どう思ってるのかはまだ分からないが。華江にはしれっと役者に他の仕事をあてがって降板させる強かさがあることも書かれたので、「夫ならこうするでしょうねー」とか言ってちゃっかり威を借りつつ、実は自分の考えを通している可能性だってあるわけだし)。

 友仁を抜擢したのは彼女だが、この人が友仁を代役・添え物として使い捨てるのか?というのが一番気になってる。自分が夫の代役に徹してる(?)ものだから、友仁にも代役に徹してほしいしその生き方が当たり前だと思ってるのだろうか。

 

 つかこうへいはアイドル的な人気の俳優を重用する印象があったので、ジャニーズ出身の九十九やアイドルの愛姫の起用は「うわ、めっちゃありそうー!!!!」と感じられた。本来ならそういう若手人気俳優が入る枠へ起用された無名の友仁。普通こうなると演劇ファンからは「おや、突然現れた注目株か?」と思われるはずだ。

 それなのに、あの追加公演のポスターは残酷すぎる。ダブルキャストなのに、追加公演ポスターのメインビジュアルに友仁不在とかある?もしかして、これからの活躍が期待される新人という建前すら与えられてない……?一応3番手として名前が上がってるしメインの片割れなのに。ポスターは多家良版と友仁版の2バージョンあるとか?そうであって欲しいけど……

 これ、完全に添え物扱いで形だけでも注目株扱いされてないのだとしたら残酷すぎると思う。でもこういう状況だからこそ、そこで平然としてる友仁の胆力が際立つのですが……

 

3.友仁と黒津

 多家良はこれまで、劇中で何度か逃亡した。前職のストレスによる失声症発症、単発ミステリードラマ『露命』(精神的に)、多忙による失声症発症の4回だ。

 で、毎回友仁(本物・偽物問わず)に救われている。いまは黒津監督のもとにいるようだが、彼は今回も友仁に救われるのだろうか。

 黒津監督が次回のキーパーソンになりそうだが、彼はダブルキャストについてどう思ってるのだろうか。友仁の演技プランが気に食わなかった黒津。このまま友仁が多家良を迎えに行くとしたら、友仁となんか一悶着ありそうだ。

 今思えば、黒津監督が多家良の背後に友仁を察知してブチ切れたのって、友仁の演技プランが彼に通用しなかったというよりも「自分のお気に入りから別の男の存在を感じる!」みたいな恋愛めいた嫉妬混じりの感情がある気もする。彼のセクシャリティは明言されてないのだが、彼が多家良自身に好意を持っているような描写は多い。2人のシーンには歳上の知識人が若いツバメに接してるような雰囲気があるし、他人のためのブロウジョブじゃ全然よくないね(≒私にだけ奉仕しろ!)みたいなこと言っちゃってセクハラする場面もある。恋愛感情がないとしても、多家良に執着する感情はあると思う。少なくとも彼の中では、友仁を含めた三角関係になってるのでは?独占欲が強そうなので、友仁と対峙するのならがっつりマウンティングしてきそうだなという印象。誰もが認める巨匠に友仁は勝てるんか?でも、アーティストの男が「彼は芸術肌だから仕方ない」とかでなにやっても許される風潮は非常にムカつくので、友仁は黒津に一発食らわせてほしい。

 

 

 

 

 

11/5日記(『ダブル』第二十幕ネタバレ感想)

 そもそも「世界一の役者」とは何か?という話である。

 

 アカデミー賞受賞者?トニー賞受賞者?世界三大映画祭での受賞者?最多ノミニー、歴代最高興行成績、史上最高額のギャラや出演作品最多など、なんらかのタイトルホルダー?知名度No1俳優?好感度No1俳優?アクターズアクター?業界内で一番評判がいい俳優?

 輝かしいトロフィーはたくさん思いつくが、こんなことで「世界一」を決めるなど、どこか虚しく感じないだろうか。測るものさしがたくさんある多様性の時代において、「世界一」とは非常にあやふやな価値観だ。「世界一の役者」というものは個人の意見としてしか存在しないのではないか。「世界一の役者は誰か」と問われても、返答は人それぞれ違うだろう。

 今回物語の前半には「世界一の役者とは 誰もがその名を知ることなのか」と葛藤する冷田がいる。これまで読者は「世界一の役者」が物語の最終到達点であると思って(思わされて)いたのだが、ゴールの条件が不明確であることが分かり、作中で確固としたものに思われた「世界一の役者」なるものの像が揺らぎはじめているのだ。

 しかし、このあやふやな「世界一の役者」という言葉はすでに一話から登場する。「多家良は 世界一の役者に なるだろう」という友仁の独白が初出だ。そしてこの言葉は、主に友仁の口から飛び出すものである。「世界一の役者」というものへの友仁の執着と狂気を感じられる。この言葉は彼を縛る呪いなのかもしれない。


 あやふやといえば、多家良の決意の内容もそうである。

 前話で、多家良は強い決意をした。「もっと遠くへ行こう」という、その決意を実行するための具体的な内容は不明確だったが、新しい始まりと多家良の変化を予感させた。今回はその後の多家良が描かれる。

 前話での劇的な彼の決意を見ていると派手な変化を期待してしまうが、今回の多家良はえらく静かだ。例えば多家良が自らを犠牲にして狂気的に演技に打ち込んでいるとか、成功を捨て去って元の劇団に戻るといった極端で分かりやすい展開はなかった。愛姫が「今の多家良さんが一番いいよ」と言うとおりに、今の多家良は理想的な状態で仕事ができている。「自分のペースで仕事に取り組む」という状況。働き方改革である。大変ヘルシーだ。前回までの多家良は自らの中に友仁を創り出してそれに囚われていたはずなのに、今回は友仁の偽もの・友仁Bは現れない。それどころか多家良は本物の友仁とも会わなくなっている。「遠くへ行こう」とは、「世界一の役者になろう」ということではなく、単に友仁と距離を取って独り立ちするということだったのだろうか?

 友仁を切り捨てた多家良が自分のペースで理想的なかたちの仕事ができているのなら、あっ、やっぱり友仁なんて所詮はただの友人、要らなかったんですね、という感じになっているのである。


 そんなところに九十九の代役として友仁がやってくるわけだ。これはおそらく友仁と会ってない多家良を気にかけた九十九の粋な計らいなのだろう。めちゃいい奴だ。友仁と相棒役を演じる多家良は「演者と役 2つの人生が板の上で重なって芝居が生まれる」の言葉の通り、九十九とより友仁との関係性があった上での演技の方が生き生きとして見える。(ちなみに「代役」に「アンダー」というルビが振られていたのが気になった。タイトルの「ダブル」とは「代役」を意味する語ではないという示唆だろうか?)

 

 で、今回のラストは、九十九が降板となり代わりに友仁が抜擢されたのではないか?と感じさせる引きだ(多分九十九は友仁の家に行く道中で多家良に電話をかけたのだろう)。

 ただ、そういう展開になったとしても友仁は役者としての存在感のみで認められたわけではない気もする。「演者と役 2つの人生が板の上で重なって芝居が生まれる」「あなた(演者)がどう生きてきたかでお話がまるで変わってくる」という華江の言葉を素直に受け取るならば、友仁の人生ーー多家良の「友人」としてのーーが採用されたという含みを感じる(またしても友人役を演じさせられるのだ)。ただ、バッターボックスに立って振らないとホームランは打てないわけだ。どんなきっかけにせよこれは大きなチャンスだ。

 今回の「相手を思え 相手になるな」「相手そのものになっちゃうと逆に見えない」というセリフからは多家良が自分の中に友仁Bを創り出したことや、本物の友仁とすれ違っていることを連想するし、多家良と友仁の関係性は『飛竜伝』を通じて大きく変わるのだろう。大きな転換点が来るように思える。


 なお、前回の大きな転換点は架空の巨匠監督のもとで、架空の映画に出演することだった。今回はつかこうへいというついこの間まで存命していた実在の脚本家に、虚構の演出家(私は舞台演劇に関する知識がほぼないのだが、モデルがいるのだろうか?)を絡めるという非常に大胆な嘘をつくわけだ。

 これには深い理解と劇や演出への咀嚼が必要で、非常に高度な作劇だ。このことからも作者はかなり力を入れてこのアークを描くのだろうなと予想できる。今後の展開が非常に楽しみだ。