7/21日記(『ルックバック』ネタバレ感想)

 2021年にこの物語を読むとき、「京アニ事件」と「マンチェスターのテロ犠牲者追悼集会でのDon't Look Back in Angerの合唱」のことを連想する人は多いのではないだろうか。あまりにも鮮烈で、悲しく、やるせない、そういう事件とそれに手向けられた想いのことを。
 そしてこの物語の後半部分には、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』からの大ネタの引用がある。この物語からはそのほかにもたくさんの引用も背景も見つけることはできるし、私は本来そういう読み方をしてきた人間ではあるのだけれど、なんだかそうしたものを見つけてすべて挙げていくような語り方をしたくないと思った。少なくともこの物語については。

『ルックバック』は、2人の友情の物語だ。そして、2人の思い出の。そしてその思い出は誰にも奪えないのだ。

 藤野と京本(「京」本だ)、2人は偶然同級生として出会う。
 引きこもって絵ばかり描いていた京本は、知らないうちに絵が得意な藤野を挫折させている。その圧倒的な画力により。奮起した藤野は、彼女なりにいろいろを犠牲にして努力を続ける。この努力を続けるシーンで、机に向かう藤野の背中の連なりが描かれる。ただひたすらに、孤独に、淡々と彼女は描いている。増えていく参考資料やスケッチブックが、彼女の真剣さや努力を物語る。だがそうまでしても全く京本の絵には及ばないのを知り、藤野はある時漫画を描くのをやめる。
 でも運命の悪戯で、2人は出会い、分かり合ってしまう。
 京本は部屋を飛び出して、藤野にファンですと伝える。藤野が何となく描いた四コマ漫画のせいで。
 この後に藤野が踊る理由、物凄く分かる。私にも似たような経験があるのだけど、自分がその背中を追いかけてた人から100%の熱意で100%信じられる称賛の言葉を貰えるというのは、頭が狂っちゃうんじゃないかと思うくらいうれしい。とても浮かれたくなることだから。

 そして2人の友情と、創作を巡る冒険が始まる。藤野のそばに、机に向かう背中がひとつ増える。

 全力でやったものが評価されないこともあるし、されることもある。誰かのなんてことない行動や言葉が心を救うこともある。
 2人は漫画家としてデビューする。その賞金を握りしめて遊びに行く2人の小さな冒険は、ありふれていて、なんでもなくて、そして死ぬほど美しい。友達がそばにいれば人間は、たった5,000円使っただけでもこんなにハッピーになれる。
 そういう何気ない日常、2人で獲得した輝かしい成功。それらは2人には同じように大事なのだ。社会が個人につける価値なんて本当はどうでもいいことなのだ。愛して認めてくれるたったひとりがいれば。
 だって漫画家としてデビューして成功したシーンよりも、2人がはじめて言葉を交わして分かり合った日の、雨の中での藤野のダンスの方が100万倍美しくきらめいてる。

 そして2人は袂を分つ。京本は美大に進学し、藤野の方は漫画家「藤野キョウ」として成功する。ただ必死に机に向かっていたころ、棚に参考資料やスケッチブックが増えていったように、『シャークキック』の単行本が棚に増えていく。でも、お互いがいなければ彼女たちの今はなかった。その「今」というものには、京本の死も含まれてしまうのであるが。
 最悪なことに、京本は殺されてしまう。すごい理不尽な暴力で。

 京本の葬儀。自分の四コマが、京本が部屋を出るきっかけを作ったことを、藤野は後悔する。
「描いても何も役にたたないのに……」
 でもここから『ワンハリ』のような痛快な改竄がはじまる。
 藤野は自らがヒーローとなり、大量殺人者に襲われる京本を救う。創作をする者は時折こういうどうしようもない妄想をしちゃうと思う。こういうシーンは『風立ちぬ』とか『この世界の片隅に』でも見た。

 我々は空想の中で誰かを救える。でもそれがいったい何になるって言うんだ?と、創作者は考えるのだろう。ただの虚しい慰めではないのか?と。
 でもそういうことじゃないのだ。
 空想は終わり、藤野は床に京本の創作を見つける。その四コマ漫画は、明らかに藤野の作風に影響されている。これはすごい重要なことだ。だって2人が出会ってなかったら、背景ばかり描いてた京本にはこんなもの描けなかった。そしてそのタイトルはこうだ。
「背中を見て」
 藤野は京本の部屋に入る。窓にはたくさん貼られた四コマ漫画が風に揺れていて、その中にひとつだけ剥がれた跡が見える。「背中を見て」はどうやらそこから飛ばされたものらしく見える。
 そして藤野が描いてきたものがそこに並んでいる。離れたって京本はずっとそばにいてくれてたのだ。
 藤野は振り向く。そこには京本が着てた半纏が掛かっている。
 その背中に、藤野の名前がある。それは出会った日に藤野が描いたサインだ。

 記憶は我々を作っていて、それは絶対に奪えない。生命を奪われたり、データをもし削除されたら記録としては消えちゃうかもしれないんだけど、それは本質的じゃないと思う。誰かがいて、誰かと過ごした。そこに事実は残る。事実を記録する媒体は別にディスクやメモリや脳だけじゃない。不壊性の話をするとすれば、現象の世界で「死」が訪れても、時空に制約されない部分で人の本質は壊れない、みたいなことも言えるのかもしれない。
 そして過去は我々を作っている。誰かとのやりとりの小さな積み重ねは我々も気づかないうちに、人格や行動に作用している。もしあの日誰かに会ってなかったら、今この日の「私」はないのだ。もしあの時藤野が京本に出会ってなかったら、彼女は藤野「キョウ」じゃなかった。彼女の一部を、確かに京本は作った。そしてその事実を、死や暴力は決して奪えない。

「背中を見て」を、藤野は仕事部屋に貼り、そしてふたたび仕事をはじめる。そのシーンで物語は終わる。

『ルックバック』はとても拡散されていたから、Twitterで面白いことが起きていた。TL上でそれを読んだ多くの人々が、もう会えない人と自分の思い出をぽつぽつと投稿してたのだ。それぞれの極めて個人的な記憶なのだろうけど、それはどれもすごい美しかった。
 優れた物語はナラティブを誘発する。感傷的だとか若気の至りだとか恥ずかしいとか言って、自嘲的に語ってた人もいたけど、でも私はそれぞれがそれぞれの大事な人を想ってると分かって本当に良かったと思った。これは証明じゃないだろうか?だってみんな忘れてなんかない。死や別離なんてものは全然みんなから大事なものを奪い去ってなんかないじゃん。
 私にも2度と会えない大事な友達がいる。その人はもういないのだけど、でもその人と会って人生のわずかな時間を一緒に過ごしたことは、なかったことなんかに絶対ならない。
 だからやっぱり、死や別離や暴力は、我々から本当に大事なものを奪えはしないと思うのだ。

 

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余談
 薄井さんがパワーちゃんの絵を描いてくれたからみんな見て。すごい良い絵だから。本当はチェンソーマンの感想のほうに載せようと思ったんだけど、なんか本当に一刻も早く見てほしかった。

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