9/24日記(CelesteのLittle Runawayを聴いている)

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人生の夢を見て、みんな何かを手にする

空に星は瞬いてるけど、私には来るものが何も見えない

祈りについて考える、多分全部置き忘れてきたんだ

 

いいニュースがあって、私には頼れる人たちがいる

でも、たった1人だけの革命なんだ

 

ハレルヤ、連れてってよ、あなたの元に

だって私、またたった1人迷子なんだ

ハレルヤ、連れてって

信じてなんかない、でも信じるフリはするんだと思う

あなたの小さな逃走者は空っぽ

信じるものを少しずつ失っていったから

だからもしあなたにできるなら

 

ハレルヤ、連れてって

待ってるから

和訳

8/28日記(『ダブル』第十九幕までのネタバレ感想)

 野田彩子『ダブル』を読んだ。コレはフォロイーがものすごく推している漫画で、私も文化庁メディア芸術祭とか次に来るマンガ大賞の入賞などで名前はちょくちょく目にしていた。でも読まなかった。重苦しそうなストーリーが今の気分にそぐわない予感がしていたからだ。
 それなのに読む気になったのはツイッターのおかげだ。この漫画はWeb連載されているのだが、先週金曜日に最新話についてのツイートがRTされてきた。ツイートに含まれる冒頭のコマの画像がどう見てもベッドシーンだったので「いよいよ読むときがきたな!!!!」と思ったのである。

 そうして読んだ回は、どう見てもこの漫画におけるターニングポイントであった。なにごとか重要な事件が発生しているのは理解したが、何が起きているのかはわからない。そもそもこれまでの経緯も登場人物とその性格もそれぞれの関係性も把握していない。休養中の主人公らしき男が女の子といちゃついたあとにオルターエゴらしき人物たちの独白を聞き、なぜか街を徘徊して知人と出くわし、そのことにより何らかの重要な決意をし、立ち直って仲間たちのとこに行き、主人公が抱えていたらしき問題がスッキリ解決した、という流れだったが、何も知らないのでひたすら「?」である。とりあえずこの回の副題が『神曲』であったため、ダンテの『神曲』から着想した話なのでは? 冒頭に登場する愛姫がベアトリーチェなのか? とは思ったが。

 ストーリーはよく分からなかったが、なぜか唐突に「ソリョーヌイ」という人名が出てきたので「ん?」と思った。チェーホフの『三人姉妹』か?と興味を持ったのである。そのことをツイッターに書いたところ、「三人姉妹の話は2巻に収録されているのでちょっと読んでみて面白かったら買うてね」と言われ、それならばと買わせていただく運びになったわけだ。

 そんなわけで『ダブル』をkindleで買い、Web公開されている最新話までを改めて読んだ。土日はフジロックの配信を見るのに忙しかった(?)し、私は漫画の表現を飲み下して理解するのがあまり上手ではないので、どんな話なのか把握するのにかなり時間がかかった。

そうこうしているうちに『ダブル』全話無料公開キャンペーンが始まった。買ったばっかりなのでなんか悔しいが仕方ない。優れた作品には対価を払うべきである。

 

1. 友人A
 私が重要だと感じているのは、この物語のタイトルが「代役(double)」であることだ。代役を演じるのは多家良ではない。友仁である。

「この世界すべてが一つの舞台」「人はみな男も女も役者にすぎない」と言うのなら、この世界で彼に与えられた「友仁」という名前は非常に残酷なものだ。主人公の「友人」役。役割を名前として与えられた、脇役とも呼べぬ端役。友人Aだ。主人公の名前が「多家良(=宝)」であることも、友仁との強いコントラストを感じさせる。

 第十九幕の『神曲』という副題から、当初は愛姫が(名前から受ける印象からも)永遠の淑女であるベアトリーチェなのかなと思ったが、読み通してみればそれよりも友仁がウェルギリウスであるという印象の方が強い。
 念の為に書いておくと、ウェルギリウスとは歴史上の偉大な詩人であり、『神曲』では地獄篇・煉獄篇においてダンテを導く師である。ダンテは彼の知識や経験から多くを学び、彼の導きで地獄・煉獄を巡り、ついには天国に至る。だが、ダンテの成長に寄与したはずのウェルギリウスは天国には入れない。

 天国には至れない友人A。端役だ。
 それなのに、友仁は一番の狂人だ。
 自分の未来を殺して多家良を支えている。彼を世に出すため、何もかも投げうっている。

 

2. 才能と否定
 多家良にハッパをかける割に、友仁自身は挑戦をしない人物として描かれる。『神曲』において、天国に至れないウェルギリウスは辺獄(limbo)にとどまった。

 友仁も居心地の良い場所にとどまり、上を目指そうとはしていない。彼は『露命』のオーディションへの参加を渋り、付き添いのつもりでオーディションを受け、そして落ち「ここに来れなかった」。そして彼は、事務所に所属した多家良の転居先にもついて行かず、安アパートにとどまる。
 多家良の理解ではこうだ。友仁は、多家良に「敵わない」。だから「せめてずっと仲良くしてたい」。「だから」「行けなかった」「ここへ来れなかった」「笑顔で俺を送り出したんだ」。

 作中では、友仁の演技がずば抜けているわけではないことが示唆されている。おそらく下手な役者というわけではないのだろう。多家良に最も近いがゆえ、多家良の才能の前に霞んでいるという印象である。

 しかし、友仁には明らかに才能がある。多家良の見たものをかたちにし、巧みにまとめて完成度の高い演技プランを作ることができる。また、第四幕では作品のニュアンスを読み違えて演技できなくなった多家良を再起させた。限られた情報しか得られない電話越しで状況を把握し、それに合わせて演技プランを書き換えたのである。これは物語の背景を瞬時に理解する能力が高いことの証左である。メフィストフェレスのように巧みな弁舌でなされた多家良への指示も非常に的確であった。彼は非常に優れた演出家だと言えるのではないか?(多家良は彼を「黒津に似ている」と評している。)

 ただし、多家良以外は誰もこの才能を見出していない。読者もこの才能をどう評価すればいいのか分からないのではないか?それは、友仁の才能が発揮されるのは多家良を相手にしたときのみに限定されているのではないかと感じられるからだ。あと、友仁の演技プランが通用せず、見切られるのが思ったより早かったのもキツい。友仁の才能を足がかりに多家良がもっと飛躍するのかと予想してた。

 Webサイトに掲載されたアオリ文には「無名の天才役者・宝田多家良と、その才能に焦がれ彼を支える役者仲間の鴨島友仁。ふたりでひとつの俳優が「世界一の役者」を目指す!」とある。これにどれだけ作者の意向が反映されているのかわからないが、作品の内容を踏まえるとこの文章には違和感を覚える。宝田多家良という俳優の持つ「ふたりでひとつの俳優」という面は黒津監督により早々に否定され、その後「ふたりでひとつ」であることの優位性は示されていない。さらに「世界一の役者」へと進みはじめた多家良は、ひとりで演じる方法を会得し始めている。友仁は確実にこのことについて気付いているが、彼の想いは明確に描かれていない。

 

3. 友仁B
 物語にはもう一人の友仁が登場する。その友仁を友仁Bとする。2巻の表紙で多家良の喉に手をかけ、こちらを睨む男がそれだ。友仁Bは時折物語に登場し、多家良と会話をする。それは友仁と考えた演技プランを否定され、追い詰められた多家良が自らの中に生み出した存在だ。
 この友仁Bは多家良のオルターエゴというよりも、多家良が演じている友仁だと感じられる。ややこしいが、離れつつある友仁の代役としての友仁Bを多家良が演じているのだ。多家良はおそらく演じることで友仁を理解しようとしているのだと思う。多家良にとって、演じることは世界を理解する手段だ。理解したいという欲求が、演じることで解消される。おそらく識字障害を抱える彼は、生きることに困難があり、逆に言えば演じることでしか世界を理解できない。そして、そのやり方を教えてくれたのは友仁だ(多家良はこれを、第十九幕ではっきりと意識する)。

 この経緯のため、多家良はどこか不健全な形で友仁に囚われている。囚われたがっているようにすら見える(友仁の方では多家良の自立を望んでいるような描写が何度か出てくる)。友仁Bはその象徴だ。

 友仁の代役にすぎなかった友仁Bは、次第に存在感を増している。第十七幕の最後に非常に不穏な形で現れ、第十八幕の冒頭では多家良と役作りをする。第十九幕で多家良を捜し出すのも友仁Bである。この場面で多家良の服装はスーツになっている。多家良が友仁と初めて出会った瞬間の再演である。

 

4.これから
 多家良には世界一の役者になる以外の道はない。なれないのなら死ぬしかないのではとすら思う。彼には役者として生きるしかない宿命がある。

 第十九幕において、多家良は自らが演じる理由を再確認し、重要な決意をする。彼が地獄巡りをするように街を徘徊する中でなされた独白は、以下のように読める。 

 友仁が俳優としての多家良を作った。それゆえに俳優「宝田多家良」は友仁のものである。
 この事実は、多家良が今後友仁と離れてどこで演技しようと、友仁が多家良を「見つけられなく」なっても変わらない。
 それならば、友仁の作った俳優「宝田多家良」としての体をもって、もっと遠くに行き、成功してみせる。

 

 ただし、この決意からは今後ふたりの関係性がどうなるのか具体的には読み取れない。
 多家良は友仁を置いて「もっと遠くへ」行くのか。それとも「ふたりでひとつ」として「生まれ直す」のか。友仁は多家良を「いつか見つけてくれる」のか、「見つけられなくなって」しまうのか。友仁「じゃだめ」なのか、「だめじゃない」のか。

 書いてきたように、友仁は今相当厳しい状況にある。才能を示せず、これまでの方法論を否定され、そこから動かないでいる。そうして停滞の中にいるうちに多家良は友仁Bを作り上げ、彼と役作りをはじめている。
 役者として・多家良の代役として、友仁の存在価値は損なわれつつあり、彼はただの友人役の域を出ない存在になりつつある。運命というのはそんなふうに残酷なものかもしれないが、私はそれはちょっと嫌なのだ。「本当はもっとやれたかもしれないやつがぬるま湯求めて日和った」のは。

 たしかにこの作品は「二人一役(ダブルキャスト)でいることから脱却し、ひとりで立つこと」を描いていく物語であるとも読めるのだが、第十九幕のあとふたりが完全に決別してそのまま終わりを迎えるわけはないと感じる。メタ的な視点ではあるが。決別を描くのだとしたらもっとふたりでのサバイブを見せてほしいし、決別を盛り上げるための布石として友仁の才能や成長、役者としての存在の失いがたさをもっと見せるべきではないか?友仁がこのままあっさり退場するのでは全然「悦くはない」のでは?

 物語はまだこれからである。たとえ最後には決別するのだとしても、物語にはまだその結末に向かって二転三転する余地がある。

 だから友仁には、友人役にとどまらずに壁を飛び越えてほしい。
 辺獄を出て、天国に至り、世界一の役者になって、多家良と「板の上で語り合って」ほしい。それがどんな形で実現したとしても。

 

 

 

 

7/2日記(Closerを結婚式で流そうとするな)

 The ChainsmokersとHalseyのCloserが流行ってた頃、パリピの結婚式に参加したらこの曲が流れててちょっと笑った記憶がある。元カノと再会して自己嫌悪に陥るという内容で、あまり結婚式にふさわしいと思えなかったからだ。

 でも最近友達と話している時にホールジーの話題になり、「Closerっていいよね、歌詞の内容も甘酸っぱいし」みたいなこと言われて気づいた。私がCloserを聞くときに見えている風景は他の人と違うのでは?

 

 Closerは私の解釈だとめちゃめちゃ胸糞悪い、こういう背景の歌である。下に歌詞の内容(和訳/意訳)あり。

 

 進学で地方から都会に出てきた男性が主人公。彼はどっちかというと貧しい家庭の出で、バイトして学費の一部を稼いでいる。

 そのうち彼女ができる。彼女はいいとこのお嬢さん。境遇に差を感じながらも、付き合いは順調。

 しかし次第にすれ違いはじめる。男性が必死に金策したり生活費を切り詰めたりしてるなか、彼女やそのまわりの友人たちは「仲間と起業する」「誕生パーティーDJ呼ぶ」「免許取ったから車買ってもらう」とか言ってる。

 男性は住む世界が違うことを思い知らされる。そういう話についていけないため、周りに小バカにされてるように感じる。というか実は自分以外の学生は大体それなりの家庭の子女だった。

 卒業後、男性は何も言わずに別の街に引っ越す。

 

 その後、四年が経過。

 男性は勤勉に働き、それなりに結果も出しているがストレスも感じている。最近アルコール摂取量が増えていて「良くないな」と思っている。

 そんな中、旧友の結婚式で元カノと出くわす。ホテルのバーで飲んでるうちにいい雰囲気になりセックスする。元カノはゴツい高級車に乗ってる。「わたしのじゃないよ、パパの新車借りたんだ」とか言ってる。

「あー、やっぱこいつの態度って鼻につくよな……悪い子じゃないんだけど恵まれてる故の無神経さっていうか、無自覚にこっちを傷付けてくるんだよな……そういやこういう奴だったわ……」と思い出す。

 自分の境遇とまわりの差を思い知らされた苦い記憶が胸に去来し、自己嫌悪に襲われる。

 

 

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Closer

 

ねえ

久しぶり、俺はそれなりにうまくやってた

最近ちょっと飲み過ぎてるかもしれないけど

まあ、大丈夫だと思う

あ、君の友達のさ

あの意識高い連中にもよろしく言っといて

俺は二度と会いたくないけど

 

傷つけたのは知ってる、最低だよね

ぶっ壊れた車で街に引っ越して、

四年間連絡もしないなんてさ

 

でも今こうやってるのはさ

最低だって知ってるけど

ホテルのバーにいる君がきれいだから

 

ねえ、

もっと抱き寄せて

君のローバーの後部座席で

君が買った車じゃないって知ってるよ

タトゥーに噛み付かせてほしい

コーナーのシーツも剥ぎ取るよ

マットレスどっかで見たことあるやつじゃん

昔盗んだやつだっけ?

ボールダーにいた頃のルームメイトのでしょ

なんか全然あの頃と変わらないよね

お互いにさ

 

久しぶり

やっぱりきみ、昔と同じでかっこいいよ

なんで別れたんだっけ?

わたし子供だったし、頭おかしかったのかも

あ、待って、blink-182かけるよ

ツーソンにいた頃さ、ふたりで死ぬ程聴いたよね

 

わたしも傷付けたって気付いてた

理由は分かんないけど、そうなんでしょ?

だって壊れかけの車でどこかに引っ越して

四年間連絡もくれないなんて

 

今自分を止められないのは

ホテルのバーにいるきみが素敵だから

わたしもう我慢できないよ

 

ねえ、ローバーの後部座席で抱き寄せて

(きみに買えるわけないって知ってるけど)

タトゥーに噛み付いて

コーナーのシーツも剥ぎ取って

マットレスは昔盗んだやつだね

ボールダーにいた頃のルームメイトのだよ

なんか全然あの頃と変わらないよね

お互いにさ

 

ただイヤなこと全部忘れたいってだけ

ローバーの後部座席で抱き寄せてほしい

どうせ親の車なんだよね?

肩のタトゥーにかみついて

コーナーのシーツも剥ぎ取るから

ああ、マットレス昔のやつじゃん、君が盗んだやつ

ボールダーにいた頃のルームメイトのでしょ

 

結局大人になんてなれなかったね

お互いにさ

ドラえもん映画リスト(〜2020)

01 ‪のび太の恐竜

02 ‪のび太の宇宙開拓史‬

03 ‪のび太の大魔境‬

04 ‪のび太の海底鬼岩城‬

05 ‪のび太の魔界大冒険‬

06 ‪のび太の宇宙小戦争‬

07 ‪のび太と鉄人兵団

0‪8 のび太と竜の騎士‬

09 ‪のび太のパラレル西遊記

10 ‪のび太の日本誕生

11 ‪のび太とアニマル惑星‬

12 ‪のび太ドラビアンナイト

13 のび太と雲の王国‬

14 のび太とブリキの迷宮‬

15 ‪のび太と夢幻三剣士‬

16 ‪のび太の創世日記‬

17 ‪のび太と銀河超特急‬

18 ‪のび太のねじ巻き都市冒険記‬

19 ‪のび太の南海大冒険‬

20 ‪のび太の宇宙漂流記‬

21 ‪のび太太陽王伝説‬

22 ‪のび太と翼の勇者たち‬

23 ‪のび太とロボット王国‬

24 ‪のび太とふしぎ風使い‬

25 ‪のび太のワンニャン時空伝‬

‪26 のび太の恐竜2006

‪27 のび太の新魔界大冒険‬

‪28 のび太と緑の巨人伝

‪29 新・のび太の宇宙開拓史

‪30 のび太の人魚大海戦

31 新・のび太と鉄人兵団

‪32 のび太と奇跡の島

‪33 のび太のひみつ道具博物館

‪34 新・のび太の大魔境 ‬

‪35 のび太の宇宙英雄記

36 ‪新・のび太の日本誕生

37 ‪のび太の南極カチコチ大冒険

‪38 のび太の宝島

39 のび太の月面探査記

40 のび太の新恐竜

9/14日記(レベッカ・マカーイー『赤を背景とした恋人たち』)

 レベッカマカーイー『赤を背景とした恋人たち』を読んだ。『赤を背景とした恋人たち』というのは、シャガールの絵のタイトルでもある。

 この小説の舞台は16年前のニューヨークだが、登場人物の一人はバッハだ。マンション販売を生業とする現代女性が、ピアノの中から唐突に現れたバッハと、マンションの27階で同居するという状況を書いた作品である。主人公は38歳の女性で、夫とは別居中である。彼女は突然現れたバッハとセックスはするが、恋には落ちないし、そのセックス自体も快楽が付随するものではない(歴史上の偉人に対して非常に失礼な設定だが、バッハとのセックスはあまりよくはないらしい)。バッハに対して、感傷を伴う執着も持っていないようだ。ではなぜ肉体関係を結んだのかというと、彼女が妊娠を希望しているからだ。史実ではバッハは子だくさんであり、その子供達は皆音楽の才能を発揮していたらしい。38歳で、流産を経験し、さらに夫とも別居している主人公はこのチャンスに賭けているのだ。


 この一連の出来事とときを同じくして、イラク戦争が進行している。作品の舞台は2002年、9.11が起きた翌年で、子ブッシュによる悪の枢軸発言の後である。まさに開戦前という状況だ。

 テロが起き、いつまた同じことが起こるかもしれないという不安がニューヨークを包んでいると考えると、主人公の行動を「それどころじゃないのに」と感じる人もいると思う。テロで命を落とすかも分からない状況なのに、訳の分からない男をバッハだと断定して家に住まわせている上、なんとか妊娠すべく試行錯誤しているのだから。芸術学の教授が赤を「暴力やドラマ、興奮や情熱」だというのに対して、彼女は「女性にとって赤とは、今月は赤ちゃんができないということ」だと言う。(ただし彼女の喪失感がその認知に大きく影響しているのは明らかだ。望むにせよ望まないにせよ、妊娠というものを大きく意識していないならば、女性にとっても赤は赤でしかない。そして、月経はただの面倒な一週間でしかない。)

 主人公の夫にとっても、関心は国家の動乱であり、妻の妊娠にまつわる問題はそれに比べると卑小なことでしかない。9.11のあと、彼は精神的に失調してしまっている。これまで信じていた安全な暮らしが破壊され、いつ死ぬか分からないという現実をはっきりと認識してしまったからだ。そして、それを揶揄する主人公に「ビルが攻撃されたときよりも去年流産したときのほうが君は落ち込んでいた」とすら言う。そしてバッハにとっても、彼女のことは大きな関心ごとではなさそうだ。18世紀から来た彼が現在直面している問題は、よく分からない時代に飛ばされ、知らないマンションの27階というとんでもない高所に自分が存在しているという恐怖だ。

こうして主人公の問題は誰からも置き去りにされてしまう。しかし、世界史の大きな転換点よりも子作りに必死になってるのは、きっと彼女が愚かだからではない。こんな事態に直面するまで世界の危うさを知らなかった夫と違い、彼女は世界が不確定で危ういものだとはじめから知っていただけではないか? そして、彼女にとっては危うい世界で自分の日常を過ごすのは当たり前のことだったというだけだ。


 高層ビルに飛行機が突っ込んだ後に高層マンションを顧客に売り込んだり、多くの人がテロに怯えているのに偉人の子をなんとか孕もうとしたりするのは確かに滑稽だが、いつの時代だって本当は不安定だ。ここ数年の間にも核ミサイルの発射や地震や水害が起きたわけなのだが、我々はそれを深刻に捉えるどころか毎日バカなことをして生きてる。

でもそういうのが人間なんだな、という感じだ。

9/6日記(『凪のお暇』感想)

熱が出た。病院以外になんもすることがなくて暇だったので『凪のお暇』を読んだ。評判がいいので期待していたが、自分には合わなかった。ただ、ストーリーは面白いと感じた。人気が出ること自体はよく分かる。ただ私が単純に主人公の元カレとセフレのどちらにも惹かれなかったというだけである。


主人公の元カレ・慎二はモラハラ気質で執着心が強い性格として描かれる。まあ率直に言ってサイコパス的というか、絶対に近寄りたくないタイプである。

「好きな子ほどいじめたい」という、凪に対するモラハラは、素直に解釈すれば機能不全家庭に育った後遺症ではないか?両親が「親」としての機能を果たしてくれなかったため、家庭では「小3の男子」的な幼児性を見せて甘えることができなかったのだろう。もしくは、幼児性を見せても受け止めてもらえなかったのかもしれない。その補償として、家庭的な凪に対し幼児性を爆発させていたのではという仮説を立てることができる。


育った家庭のせいか、慎二は秩序や「空気を読む」行為に対し、強い嫌悪と強い執着という矛盾した感情を同時に持っている。

彼は同じ方向に泳ぐイワシの群れを「滑稽」「キモイ」と感じる一方で、「スベってる」ものも嫌う。そして、「空気を読」んで必死に生きていたストレートロングヘアだった頃の凪に執着する。変化した凪を目の当たりにすると感情を抑えられなくなり、激昂したり号泣したりする。

彼の回想の中の凪は、家庭的なイメージや性的なイメージ、もしくは頼りなく控えめで従順なイメージを纏っている。過去を捨てて変わろうとする癖毛の凪は「ブス」だと否定する。


彼にとって、凪の癖毛は秩序を乱すものの象徴である。1巻と4巻では凪の癖毛(の触感)にセックスを邪魔されるシーンさえある。

慎二が好むのはストレートロングヘアだが、ストレートロングヘアの「覆い隠すイメージ」は作中のセックスシーンで時々強調されている。慎二がフェラチオを好むのは、長い髪の毛と体勢で相手の表情が隠れるからではないか?もっと言うと、目が合わないからなのでは。彼は騎乗位の時に長い髪が顔の前で揺れるのが好きだとも言うが、コマに描かれた凪の「乱れた髪から時折覗」く目には長い髪が薄くかかっており、恍惚としていて慎二を見つめていない。この辺りの描写は慎二がセックスの相手と向き合う必要性を感じていないことをほのめかしており、「言葉足らずですれ違う」という慎二と凪のイメージに合致する。


で、セフレの方はクラブ通いのゴンだ。

彼は明言はされていないがパンセクシャル、かつポリアモリーっぽい性的指向の持ち主のように描かれている。

彼と凪はセックスする(恋人ではない)関係になるが、性的指向が異なる相手と恋愛関係に陥るのは非常に大変なことだと想像がつく。5巻の時点ではゴンが凪だけに特別な感情を抱きつつある描写もあるが、それは凪がゴンとの関係を続けても「壊れなかった」(ように見えた)からである。これはかなりキツい選定理由だ。ゴンは壊れた凪を目の当たりにしていないので、彼女を傷つけてしまったことを本質的には理解してない。実際のところ凪は傷つき「壊れて」いたのだが、周囲の指摘や助けによって持ち直したのである。一応凪はそのことを告白するが、そのときのゴンの意識は「害悪」と呼ばれて自分が傷つくのではないかという点にあり、凪の辛さを多分まともには聞いていない。「なんかみんな同じこと言うよな」という感じで彼には理解できないのである。

 

慎二とゴンに共通するのは「他人の欲望を理解し、その欲望をできる限り満たす能力」である。まあつまり凪が渇望する「空気を読む力」だ。慎二は悪人でゴンは善人という違いはあるのだが。ただ、実は2人ともこの能力のために苦しんでいる。

慎二とゴンがそれぞれに凪の苦しみを理解できないように、凪にも彼らの苦しみは分からない。そもそも凪は己の苦しみを語るが、男たちはなぜか凪に苦しみを語らない。空気を読む力を持ち、コミュニケーション強者に見える彼らだが、コミュニケーションの力を本質的に信じていないのでは?という気さえする。


凪の次にモノローグが多い登場人物は慎二であり、彼の側のストーリーが多く描かれているところを見ると、最終的な山場は凪と慎二の関係ではないか?その結果一緒に生きてくのかは別として。今のところ彼は逸脱や変化を恐れる人物なのだが、今後は変化や成長が描かれていくのだろう。

7/3日記(コナンすげー)

そういえばコナンの映画を見てた。コナンの映画は子供の時にテレビで何回か見た記憶があるが、映画館では見たことない。子供の頃見た映画だと、コナンはなぜかヘリの操縦ができたり銃の扱いに慣れていたりして、「ハワイで父さんが教えてくれたんだよな」とか言い訳をする謎のギャグがお約束だった気がする。おとんとの旅行で試したちょっと危ないアミューズメントが、その後の人生を左右する場面で役立つ蓋然性の高さ……、なんか、ようこそ米花町へという感じである。


いきなりなんでコナンを見ようと思ったかというと、コナンシリーズの興行収入を知ったからだ。コナンの映画は興行収入がやばいというのは知ってたのだが、1作目以降どんどん興行収入は上がっていき、前作の『名探偵コナンゼロの執行人』では91.8億円を稼ぎ出している。もちろん日本歴代興行収入ランキングにも名を連ねることになっていて、『ゼロの執行人』は『シン・ゴジラ』『ロード・オブ・ザ・リング』より上にランクインしている。安室透というキャラが近年人気らしいので、彼の貢献も大きいとは思うのだが、彼をメインに据えていない作品でもかなり客入りが良いようだ。ジブリでも新海誠でもないのに一体どういうことなんだよと思ったので見ることにしたのだ。


で、試しに評判の良い『漆黒の狙撃手』を見たのだが、エンターテイメントとしてシナリオの完成度が予想以上だった。

映画だと派手なアクションで見せ場を作らねばならないが、一方でコナンは本格的な謎解きもウリなので、そちらにも配慮する必要がある。人気キャラを登場させてファンを呼び込むことも重要だろう。

これらに加え、近作では「映画鑑賞者へのサービス」を設けるようにしてるらしい。なんか、『漆黒の狙撃手』は原作でもアニメでもまだ触れていなかった本編の核心をさらっと盛り込んでて、公開当時はかなり話題になったとか。

盛り込む要素がこれだけたくさんあれば、内容は散らかりそうなものだが、ちゃんとまとまっている。しかも、シリーズがワンパターンに陥っていないのがすごい。各作品が同じようなテイストかと言えばそんなことないのだ。全然コナンに興味なかったのに気づいたら何作か観てたし。みんなが見に行くはずである。


そういえば「コナンは平成を描いた」という指摘がある。さやわか『名探偵コナンと平成』だ。工藤新一は「平成のシャーロック・ホームズ」を目指していたが、結局なれないままに平成が過ぎていった。なかなか元の姿に戻れないコナンの停滞感は、そのまま平成の停滞感と繋がるという内容だ。そして、コナンの世界には殺人の小道具や背景として平成の風俗が多く登場している。

まあただ、コナンが平成を描ききれているかというとちょっと疑問だ。子供だった私の印象では、コナン世界で語られる平成の風俗は「おっさんが若い子に合わせてるな」というものだった。例えば作中でジンが灰原哀の髪色を「茶髪(ちゃぱつ)」と表現するが、彼女はイギリス系日本人なので元々髪が茶色い。茶髪はあくまで「染色した結果、茶色くなった髪の毛」を指す若者言葉であり、元々地毛が茶色い場合に使うのは違和感があった。あと、女子大生がポケベルで繋がっているベル友を探す回があったが、この回が収録された26巻は2000年の発売である。当時既にポケベルは衰退期で、世間には携帯電話が普及していたようだ。ちなみにベル友ブームは1996年頃だったらしい。

蘭が新一に対して「スケコマシ」という単語を使うので「なにこれ?」と思って調べたこともあったが、おっさんが使うならまだしも若い子や女性は使わない単語かな……という感じであった。ちなみにこの言葉、未だにコナン以外で聞いたことない。蘭は一体どこでこの言葉を知ったのか。


ただこの違和感というかズレは、あくまで「平成の風俗の書き方」に限った話であり、コナンの作品としての面白さや完成度を毀損するようなものではない。こんな風に無理をして(?)作者が若者の風俗を描く姿は、子供ぶっても子供になりきれてないコナンとどこかダブって見えもしておもしろい。