6/13日記

昨日インターロップに行って歩き回ったので肩と足が痛い。あの手のイベントに行くといろんなものをもらうので、ペンとかお菓子とかメモ帳とか謎のノベルティを持て余している。年々ノベルティはしょぼくなって行ってるので、日本企業の衰えをぼんやり感じる。インターロップの横でやってたAWSのイベントにも行ったが、こっちは街を模したと思しき会場に電車が走ってるわ、無意味に道路を模した道に横断歩道風のペイントはしてあるわ、黄色いカーペットは敷いてあるわ、無料でカキ氷やアイスはもらえるわ、マッサージチェアがずらっと並んでるわでこの世の春だった。さすがクラウドを制した者だなという状況である。ただ出展企業ノベルティはインターロップよりしょぼかった。多分インターロップより出展料が高かったのでノベルティにお金を回せなかったんだと思う。

※インターロップの話題を出しておいて恐縮ですが、個人の日記に技術的な話は一切書きません。もう仕事でレポート書いたので……

 

で、今日はインターロップ疲れを引きずりながら仕事したのだが、本当にいいことがなんもなかった。インターロップ疲れにより作業のクオリティもかなり落ちたと思う。もし行くなら、インターロップは休日の手前に行くことをおすすめする。

6/2日記(『ピエール瀧の23区23時』感想)

ピエール瀧の23区23時』を少し前に読んだので感想を書いておく。これは2010年の暮れから2012年の春にかけて、ピエール瀧とスタッフが夜の東京23区を順番に散歩するという企画を本にしたものだ。「既視感のある企画だな」と感じた人もいるのではないだろうか。なにしろ、こうした「普通の街に於ける散歩を主体とした紀行もの」は、同時期にいくつか類似番組が登場していた。マツコ・デラックスの『夜の巷を徘徊する』(2015年〜)、有吉弘行の『有吉くんの正直さんぽ』(2012年〜)、さまぁ〜ずの『モヤモヤさまぁ〜ず2』(2007年〜)などである。背景には、制作費の問題、つまり、テレビ業界がロケにお金を使えなくなったという事情があるのだと思う。


本の話に戻る。

これは2010年の暮れから2012年の春だから、だいたい9〜7年前ということになる。ちょうどその頃暇を持て余していたので、自分も友達と夜によく出歩いていた。この本にも同じように若さと暇を持て余した若者が登場し、瀧と少し会話しては去っていく。瀧はそんな若者たちとそれぞれに会話する。ひとりで星を見ている高校生に「君って優しい子なんだね、こんなところにひとりで星を見にくるなんて」と声をかけ、異国から来た団地住まいの子供と顔じゃんけんで盛り上がり……、渡されたレストランのカードをにこやかに受け取って「そのうち散らかしに行きますね」と声をかけたり、温泉のカラオケで『Shangri-la』を歌い「ご本人登場」をやったり、出稼ぎの外国人の愚痴をずっと聞いてあげたりもしている。ただ相手を持ち上げて褒めて無難な話をするだけではない。それぞれとの対応が優しく、ユーモアがあり、粋であり、こんな風に彼と会ったならファンにならずにはいられないと思う。


しかし、およそ10年前である。

物事がグラデーションのようにしか変わっていかなかった平成なので、10年経っても世の中はそんなに変わってないのではないか?と思ってしまうのだが、実はそうでもない。瀧の持ってるスマホはiPhone4で、サイズも画面もずいぶん小さく思えてしまう。この本に登場するメイドの女の子の名前をググったら、FC2ケータイホームページの前時代的なサイトが出てくる。解像度の低いセルフィーは全然盛れてないし、インスタ映えという感じもしない。瀧が散歩してるこの東京ではスカイツリーが完成していないし、政権も今と違う。企画の始まった頃はまだ東日本大地震も発生してない頃だ。

平成から令和に元号が変わることに対して、なんの感慨も抵抗感も抱かなかったのだが、少し前の東京をこうして見ると、少し惜しいような気持ちが浮かんできた。よく食べていた限定フレーバーのアイスクリームが生産終了になったときに似た気持ちだ。惰性で食べ続けた、慣れ親しんだその時代は2度と来ないのだ。

ここにあるのは「懐かしい」にはまだ至らない、今とは少し違う東京だ。あの時好きだった東京の夜の空気。なんか、時間が確実に経っていることについて、ぼんやりと考えてしまうのだった。

4/18日記(『ティファニーで朝食を』感想)

 カポーティティファニーで朝食を』を読んだ。『冷血』は読んでたが、取っつきやすそうなこちらを読んでなかったのには理由がある。映画版のせいだ。映画版はオードリー・ヘプバーンの代表作であるため知名度も高くて人気だが、登場人物の一人であるユニオシという日本人が問題だった。白人俳優により、イエローフェイスで差別的に演じられてたのだ。したがって日本生まれの日本人としては食指が動かなかったというわけだ。

 今回思い立って原作を読んでみたら、ユニオシはそんなに嫌な奴としては書かれていなかった。しかも映画版とは異なり物語のキーマンであり、主人公がヒロイン・ホリーの行く末を知るきっかけを作ってる。ただ周りのアメリカ人たちに「ジャップ」とか呼ばれてはいるのだが。これはWW2の頃の物語のはずなのだが、ユニオシはなぜか周りのアメリカ人たち同様、普通に暮らしてる。「この頃日系人は敵性外国人として収容所にいたのでは?」と思ったが、必ずしもそういう訳ではないらしい。ユニオシは画家の国吉康雄の名前をもじったものだとどっかで聞いた気がするのだが、その国吉康雄も戦争中収容されることなくニューヨークに住み、反日プロパガンダのポスターを描いてたようだ。


 原作の結末が「映画版とは異なる」ということは知ってたので、てっきり悲恋物語だとばかり思ってたのだが、そもそも主人公とホリーの間には恋愛らしきものがない。二人はセックスもしないし、キスもしない。いろんな場所に遊びに行ったという話はあるが、いわゆるデートではなさそうだ。これは完全に友情の話である。カポーティはゲイなので、男女の友情というものをシス男性よりもリアルに感じていたのかもしれない。

 主人公もホリーもゲイフレンドリーというか、主人公はビアンを題材にした小説を書いてるし(ホリーに「あんたの小説ってつまり百合だよね?ビアンの子とは仲良くしてるけど、百合小説ってあんま好きじゃない」的なことを言われて見破られている)、ホリーはビアンとルームシェアしたがってる。ホリーはストレートっぽいが、主人公はもしかしたらゲイかアセクシャルなのかもしれない(直接の言及はないが、カポーティ同様ゲイのような気がする)。彼は少なくとも裸のホリーに対して特に反応をしない。登場する男たちは肉体的な魅力を含めてホリーに惹かれている男ばかりなので、主人公の異質さがより分かりやすい。

 ホリーは映画版で演じているオードリー・ヘプバーンの影響で、無邪気な妖精というイメージが強かったが、無邪気どころか相当なビッチである。性的に奔放という意味ではないが(まあ妻子ある男の子供を孕むのだが……)、性悪で人の忠告を聞かない上、犯罪も平気でやる。友人の狙っていた男を旅行で寝取り、金払いの悪い男を家の前で追い払う。最後も逃亡先で誑かすためにブラジル人の金持ち男のリストを作るよう主人公に命じるし、知人が工面した保釈金も踏み倒す。でも自由を愛する人間というのは本来こういうものである。自由のために他人の善意を犠牲にしたり、法を踏みつけにしたりするわけだ。

 こういう女に普通の倫理観を持つ人間が恋してしまうと、どう考えても地獄が待っている。嫉妬で苦しみ、愛が独占欲に変質してしまうか、相手が「正常な倫理観」を手に入れて自由でいた時の魅力を失ってしまうか、相手に合わせて自分が新しい倫理観で生きざるを得なくなるか、愛を失うかのどれかになると思う。

 その点、主人公と彼女が友情で結ばれている状況は非常に理想的である。主人公とホリーのどちらも自分の考えを変えることなく、互いに尊重し合いながら楽しい時を過ごし、別れ、胸には美しい思い出が残った、という理想的なハッピーエンドだ。ドックもホセも獣のホリーを飼いならせなかったが、主人公は独占欲なしの愛情で、ホリーという獣をそのまま受け止めることができた。意見は言いながらも彼女の考えを無理に変えることなく、得難い経験と美しい記憶を手にしたのである。

 自由に生きるホリーは一見友情を利用しただけのように思えるが、彼女の方こそ友人誰もに愛を向けてるのではないか。彼女は流産の危険を冒してまで主人公の命を救うような態度を見せるし、犯罪に巻き込まれた際には相手を恨まないばかりか、相手に不利な証言をしたくないがために国外逃亡までする。約束は破るし利用もするくせに、命は張る。友情の守り方が独特すぎるのである。「正常な倫理観」を前提にするとかなりちぐはぐに見えるので、彼女の行動を受け入れられない人間は多いだろう。自分の信念だけに忠実な人間と付き合うのは時に難しい。そんな生き方は周りを犠牲にするし、他者を傷つけることもあるから、そうした人間を排除するしかない時は多くある。だからきっと、ホリーはろくな死に方はしないのだろう。排除されようとも、何かに飼い慣らされるくらいなら自由に殉じるのだろうと思う。

 ホリーが消えた後の主人公は、ホリーの飼ってたネコが新しい窓辺の陽だまりで眠っているのを見つける。そして、ホリーもそうしているかもしれない、そうであってくれと願う。そうである可能性はどう考えても低いのに。でも、彼女の今後の人生がどうあれ、ホリーは二度と会うことのない友人に祈りを手向けてもらえるような人間なのだ。

 

3/25日記(こんまり)

 今更こんまり本を読んだ。日本でも世界でも今こんまりは第二次ブームだと思うのだが、私の周りに限って言うと一次ブームの時こんまりメソッドを実践してたのは女性、特に主婦や年配の方が多かった。例えば女友達から「今ときめかないもの捨ててるんだー」とか、「母さんが片付けにハマっててときめかないもの捨ててるんだよね」という話はよく聞いた。男友達からは「うちのおかんも今モノを捨てまくってる」という話なら聞いたが、自身が実践してるという話は聞いたことなかった。

 しかし、今回のブームでこんまりを実践してるのは勤労世代の男女が多いように思う。なんか「グラスフェッドバターコーヒー」とか「ファクトフルネス」の流行り方にも少し似てる気がする。

 今回のブームに一役買ったのがNetflixの番組"Tidying up with Marie Kondo"で、私の周囲の勤労世代の人は結構Netflix好きが多いからという気もする。あと、もしかすると日本での第一次ブームではお昼のワイドショーとか女性誌で特集が組まれがちだったのかもしれない。まあこんなのはどうでもいい個人の印象で、別に統計を取ったわけでもなくあくまで私の周囲に限った話であることを強調しておく。

 

 で、本の内容だ。「はじめに」を読んでなんとも言えない気持ちになった。言葉を選ばずに言えば、非常に胡散臭い。冒頭の数ページで、こんまりメソッドに従って片付けを行えば二度と部屋が散らからないばかりか人生すら好転する、と書かれているのだ。信頼できる周囲の友人や知人が「こんまりの片付けは非常にロジカルで効果的である」と推薦していなければこの時点でページを閉じ、本をこんまりしているだろう。

 

 本は平易な表現で万人に分かりやすく書かれており、家事や夕ご飯の支度をしながら二時間程度で通読できるようなものだった。参考にできるとは思ったが、実践したいかと言われると難しい。私に限って言うと、この本の内容だけではあんまりモチベートされない。Netflixの彼女の番組を見た時は「片付けすげー!片付けイエー!今すぐ家中の服を集めろ!」みたいな気持ちだったのだが。

 というのには二つ理由がある。一つ目は服の片付けについてである。私はハンガー愛好家で大体の服を引っ掛けて収納しているが、こんまりは畳むことの良さをかなり強調して説いている。畳む収納はこんまりメソッドの中でかなり重要な行為である。まあ分かるけど正直めんどくさい。

 で、二つ目が「はじめに」と「第5章」の内容だ、これはまさに読者を実践者とするべくアジりまくって片付けの効能を解くモチベートの章なのだが、私にとってはなかなか現実味がないなという印象を受けたのだ。なんと言えばいいのか、はじめの出版社の影響があるように思う。よく指摘されている「宗教性」については、スピリチュアル系に多少の目配せはしつつも一線を画しているという印象ではあるし、こんまりは片付けの良さを滔々と述べているだけなのだが、「おうちにご挨拶を」「モノとのご縁は貴重で尊い」「今向き合うか、いつか向き合うか、死ぬまで向き合わないか」と言われると、「え、アタシ今オルグされてる?」という気持ちになってどこか抵抗してしまう。読者、特にエンジニアの方はこの本の内容を彼らの使う言語に「翻訳」してる印象が強かったのだが、その理由も分かるわという感じである。

 ただ、そのあたりを気にしなければ分かりやすくて良い本だった。この辺のことは、片付けを「なんかスピリチュアル系に親和性のある行為」ではなくロジックを持った「セラピー」として捉えるとしっくり来る(すでに指摘されてることではあるが)。本を読んでいるだけでは気づきにくいが、Netflix版ではこんまりの片付けは家族や個人の問題を癒やすセラピーとしての側面が強調されていた。これがtherapeuticなものを求める欧米人にハマったという話を聞いたが、なるほどーという感じである。

 

 それから意外だったのは、通読後こんまりにかなり好感を持ってしまったことだ。こんまり、Netflixでは典型的日本人という感じなのに、実際は考えも独特で面白いし、過去のエピソードも結構変わっていてなによりキュートである。本に時々挟まれていたこんまりのエピソードはどれもかなり面白かった。きっころのTシャツを大事にしてるくだりは特に面白かったし、片付けすぎて病院送りになる話もやばい。

 

 というわけで、こんまり本の読書体験はかなり独特で面白いものだった。私に限って言えば、Netflixで気持ちを高めて本でメソッドを学ぶという順番は正しかった。逆だったらうまく気持ちを高められなかったかもしれない。このあとさらにNetflixを再視聴して気持ちを高め直して片付けをすれば、上手いこと掃除できそうである。とりあえず、服を畳むかどうかは一旦保留しておく。

 

www.netflix.com

 

 

 

 

3/19日記(バブバブ)

 知人にあかちゃんが産まれたそうだ。これまでも何度か友達のバブ複数名に会った話とか後輩に出産ギフトを贈った話とかを書いたし、つい先日も他の方に寄せた出産おめでとう日記を書いたばかりで、平成ラストの今年度は身の回りで出産がとても多い。(ちなみに、3月中に知人のとこにあかちゃんがあと2人来る予定)

 信じてもらえないかもしれないが私はあかちゃん大好きなので、あかちゃんが産まれたと聞くだけで嬉しくなる。産まれたてのあかちゃんを抱っこした経験がある人には分かってもらえると思うが、フニャフニャの顔や、眠そうな目や、まだ十分に脂肪がついていないトカゲみたいな身体つきや独特のかわいい泣き声やキャラメルみたいな匂いを思い出してニコッとしてしまう。

 本当におめでとうございます。生まれてきたあかちゃんとそのご家族に幸多かれと願っています。

3/15日記(瀧………)

 まだ瀧の件がショックで落ち込んでる。電気グルーヴの楽曲が回収になってしまって、AmazonでもApple musicでも店頭でも彼らの音楽を手に入れることは出来なくなってしまった。iTunesSpotifyの対応はなぜか少し遅れていたので、iTunesで電気の持ってないアルバムを全部買った。J-POPまでは物理で買ってたので持ってるのだが、その後はストリーミング配信を頼ってたので。

 

 iTunesのランキングでは電気のアルバムが上位を占めていた。まだiTunesは配信停止してないという報せを聞いたみんなが買ってるんだ。Spotifyの音源は今日の夕方聞けなくなっていた。

 YouTubeの動画も早い段階でほぼ無くなった。しかたないので、残ってた2006年のフジロックでの虹を見た。動画には、たくさんのコメントが付いている。殆ど全てが瀧に対する激励や応援だった。

 暗い世界とステージの目を刺す光、浮かび上がる観客の顔。瀧は滑稽なくらい真剣な顔で緑のレーザーをステージのはるか遠くに照射していた。卓球は卓を丁寧にいじりながら時折目を閉じて短く揺れていた。曲があまりにも美しくて頭がぼんやりした。昔、フェスでこの曲を聞いた時、心地いい温かさの細かい霧を浴びながら目をつぶってるような気分になったのを思い出した。

 

www.youtube.com

3/13日記(瀧……)

 瀧……。瀧……。マジかよ。コカインか……。


 はじめて買ったCDは電気グルーヴだった。ブックオフのワゴンから拾って500円くらいで買った。それ以来ずっと電気が好きだった。彼らはわりとすぐthe Last Supperで活動中止してしまったので、リアルタイムで追いかけられずになんとなく過去の音源を集めていた。虹、Shangri-la、N.O.みたいな定番曲はもちろん好きで、恥ずかしながらフェスで聴きながら泣いたこともある。ドリルキング社歌とかガリガリくんの歌みたいなバカ路線も好きだ。売れなかったというFlashback Discoも好きだったし、復活後のBaby's on fire、Shameful、モノノケダンス、人間大統領、アルバム曲にも名曲はたくさんある。


 電気にはMarchというシニカルな別れを歌った曲がある。近年、卓球はこの曲の歌詞を少しポジティブにアレンジして、三月はマーチという曲にしていた。今日はこの曲をずっと聞いていた。

 

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