2/14日記(ゴールデンカムイ感想、189話くらいまでのネタバレあり)

 大変だーーーーーーーーー!!!!!ゴールデンカムイが、ヨブ記ヨブ記ーーーーーーーーーーーー!!!


 ゴールデンカムイは一応連載を追っているのだが、時々ヤンジャンを読めないこともあった。あと、連載では主人公が出てくるメインストーリー以外は読み飛ばしてたのだ。なんか、本格的に登場人物同士が殺し合い始めたので、読めてなかったサブストーリーもヤンジャンアプリで読んだのだが、それが完全にヨブ記である。や、大審問官と言うべきか?すげー。クリスチャンでもないのに日記のカテゴリに「ヨブ記」を設けている私としてはつっこんで行かざるを得ない事態だ。まさか、善人がほぼいないこの漫画でヨブ記をやるとは。

 同時に納得した。以前に尾形と勇作(という登場人物がいるのだが)の関係性はドストだと言ってる人をツイッターかなんかで見かけたのだが、その時は「今の舞台がロシア方面だし、確かに分からなくはないけど……。○○も△△も普遍的なテーマだし、ドストなのかは判断できませんねー」と思ってた。でもこの読み逃したストーリーを読んだあとなら「ドストだね」と言える。ドストです!


 というわけで好みのものに好みのものがぶつけられ、なかなか楽しんでいる。

 あと、樺太編に入ってから物語内で殺人の意味が変わりつつあるのも見逃せない。この漫画ではアホみたいに人が死ぬので殺人に対するハードルがかなり低いのだが、ストーリーが次第に殺人の罪悪に焦点を当てはじめ、物語内の善悪の概念が揺らいでいるのだ。ゴールデンカムイのみに限らず、この手のフィクションで殺人の罪悪について言及するのはルール違反というか、ある意味で無粋な行為だと思ってたのだが、樺太編でそのルールが書き換えられはじめている。


 そもそもこの漫画の主人公・杉元は日露戦争帰りの元兵士で、従軍という建前のもと、戦場にて殺人を繰り広げてきたという過去がある。敵対する勢力は戦争帰りの連隊、脱獄囚、明治維新の生き残りである。脱獄囚は大体が凶悪な殺人犯だ。つまり登場人物の殆どに殺人の経験がある。ただし、アイヌ民族には殺人を忌避する考えがあるようなので、ヒロインのアシリパ含む普通のアイヌは殺人に積極的ではない。

 また、実は初期の頃は杉元も殺人を犯してはいなかった(除隊後の話)。獣は狩っているが。人間の敵にとどめをさすのは、動物だったり別の敵だったりしていた。この辺を見ると、初期の作者には戦争という建前を取り払った状態で主人公に殺人を犯させることに躊躇があったのではないかと推察できる。青年誌だけどジャンプだし。ただドスト的に読むなら、殺さなくても殺意を抱いた時点で罪人なのかもしれないが。

 今読み返したら、三巻で正当防衛っぽく二階堂を殺めるまで、杉元は殺人を犯していなかった。殺人自体は作中でものすごく頻繁に起きるし、杉元が殺人を躊躇う様子は全くないのだが。四巻でも殺してない。五巻では辺見を殺してるように見えるが、実は戦いの途中でシャチが辺見を生きたまま攫っている。致命傷を与えたのは俺だと杉元は言うが、それが本当なのかは不明である。その後、九巻のアイヌコタンでの殺戮までは彼の殺人描写はない。

 で、九巻、訪れたアイヌコタンにて杉元は戦場での活躍を思わせる戦いぶりで大量殺人を犯す。一つの集落を壊滅させるほどの殺戮を行い、アシリパを戦慄させている。

 ただ、この時点で注目されるのはエスカレートしていく杉元の暴力性や狂気であり、杉元の罪自体は目立たない。敵に取り囲まれているのでやらざるを得ないという面もあり、アシリパを人質に取られているという言い訳も成立する。

 もちろん通常ならばそんな言い訳が立つわけないのだが、正当防衛、アシリパを守るためなどと、とにかく杉元の殺人に対しては読者が納得できる理由(?)が与えられていた。「殺らなきゃ殺られるんだから仕方ないよな」的な。

 物語中ではこの調子で殺人がバンバン起きるし、しかもアシリパ以外は誰も殺しを躊躇してる様子はない。そのせいで読者も完全に感覚が麻痺してしまい、相対的に殺人のインパクトが薄れてしまうのだ。


 しかし、なんとこの価値観に対してデノミが発生したのだ。読者は「今更だけど、そういえば殺人って罪悪だよね……」ということに無理矢理直面させられている。

 樺太編に入るまでは、殺人が発生するにあたってクローズアップされてるのは罪というよりどちらかというと杉元の狂気だった。読者が不安視してたのは、脱獄囚と戦う杉元も次第に殺人狂になっていくのではないか?という点である。ミイラ取りがミイラになるように。

 ではなぜ殺人狂になってはいけないのか?殺人は罪悪だからである。


 思えば樺太編にはいるまで、この漫画の中で登場人物が殺人自体を悔悟したりその罪悪に気づくという描写はほぼ無かった。あ、一つあったか。フミを殺した賢吉のエピソードだが、彼は主要人物ではない。それと姉畑支遁は自分のしたことの罪悪感を誤魔化すために殺していたが、対象は動物なのでちょっと違う。

 一応主人公の杉元については、戦場での記憶が彼の心に大きな傷を与えているという描写はあるのだが、それは罪悪感や後悔というより、「主人公の暗い過去」という青年マンガ的な味付けの一つなのかな、という印象だった。「殺人の罪を認識している」というより、「以前のままではいられず、汚れてしまった自分を嘆いている」とか、「狂気に囚われて自分が自分でなくなってしまうのを恐れている」とかいうニュアンスがあったように思う。それは、主人公のトラウマが表現される時に殺人の罪一つ一つを悔いているような描写ではなく、幼馴染の寅次の死や地獄のような戦場の様子、初恋の梅子に拒絶され、汚れてしまった自分自身に戦慄するというエピソードが強調されている点からも明らかだ。

 そんな中、樺太編の中盤で尾形に異変が生じる。このキャラクターは父母や腹違いの弟を過去に殺害してる。その父母の殺人についてはすでに語られていた。そして弟殺しについて新しく詳細が分かる。

 尾形は妾腹で、腹違いの弟がいる。弟は優秀な上に人を惹きつける人格者でもあり、尾形に対しても偏見なく接する。それどころか、周囲に疎まれる尾形を優秀な兄として慕ってすらいる。私が弟の友達ならあいつはヤベーぞっつって絶対止めてるが。

 はじめ、尾形は弟を堕落させて懐柔しようと企むが、弟は高潔で、思うように尾形に靡かない。しかも弟は「人を殺すことに罪悪感などない」という尾形に対し、「人を殺して罪悪感を微塵も感じない人間がこの世にいて良いはずがない」という強烈な台詞を放つ。ええー!尾形だけではなく大半の登場人物の存在を否定する一言だ。この言葉が尾形のカンに触ったのか、弟は戦場にて尾形に殺される。

 ただ尾形、なんか明らかに殺した弟の亡霊にとらわれてるのである。この漫画の世界には亡霊など存在しないので、亡霊は尾形の心が創り出したまぼろしだ。つまりこれは尾形が無意識下で弟殺しについての罪悪に気づいていることの表れである。罪悪感などないと言いながら。

 え、こいつ罪悪感とかあんの?一番サイコパスっぽい性格を与えられているのに?つーかこの物語の登場人物にそういう罪悪感みたいな気持ちあんの?という驚きが出てくる。

 思えば尾形は人を殺したことのない弟に捕虜を殺させ、手を汚そうとしていた。後になってアシリパにも自分を殺させようとするし、なんか彼は「清い存在の手を汚す」という点に異常に拘っている(ドストっぽい)。殺人をさせることによって。

 それってつまり、逆説的に言うと殺人をタブー視していることになるのでは?え、まじかよ……。


 こうなるまで物語の中の一番の罪は、「裏切り」だった。だから、誰を信じてついていけばいいのか読者が判断するのは簡単だった。

 尾形は悪だ。杉元や肉親を裏切るという罪を犯したから。杉元を撃ったから悪。アシリパの父を殺したから悪。父母、そして弟を殺したから悪。

 しかし樺太編では、ここで働いてる「裏切り」=罪悪という価値観に、「殺人」=罪悪という価値観が加わってくる。

 善人を殺した尾形は罪人だ。でも、人の命の重みに差異があるのか?脱獄囚や偽アイヌのような悪人を殺した杉元は罪人か?罪人だ。人間の命に重みづけする資格など、本当は誰にもない。

「お前らに罪悪感あるのかよショック」の次は、ソフィア(極東テロ組織の人)が事故で何も知らないロシア人の母子を殺してしまう。善人を殺したソフィアは罪人か?そしてこの死は事故死だが、これは罪か?という話で畳み掛けてきてるのである。ソフィアはこれを罪だと感じ、女としての幸せはこれから捨てると言う。だけどその殺された母子と、テロリストとしてこれまで殺してきた相手は何が違うのか?

 なぜか知らんけど、ゴールデンカムイの作者は赤ちゃんのちょっとした特徴とか表情を描くのがめちゃめちゃ上手なので、この回はどんなグロシーンよりもキツい。この回だけはちょっと直視できなくてまともに読んでない。

 樺太編にはこういう不慮の事故による死傷がやたらと出てくる。キロランケがインカラマッを刺した件に始まり、ソフィアの件もあるし、あとアシリパがとんでもないことをやっちゃうのだがそれも不慮の事故である。興味深いことに不慮の事故を起こした後、なぜか加害者は全員憔悴している。彼らはおのれの罪悪に気づいたのだ。彼らは明確な殺意や害意を持って他者を死傷させるときは平気な顔をしているのだが。

 このクリシェにも多分意味があって、素直に受け取るとドストエフスキーの『罪と罰』である。金貸しのババアを殺した時、関係ない妹までうっかり殺してしまったことによりおのれの罪悪に気づき、罪悪感から逃れられなくなるアレだ。


 こんな調子で、バンバン人が死にまくる漫画なのに、樺太編では全編に渡って悪人を殺そうが善人を殺そうが殺人は罪悪だということを描き出していたのである。

 これは結構な衝撃だ。え、今それやるの?もうこっちは漫画に合わせて倫理観をチューニングしちゃった後なんだけど……???


 というわけで、物語が一気に不穏になった。殺人はこの漫画の中でも当然ながら罪悪だということに、読者があらためて気づいてしまったからだ。すげえ。しかもこっちはこれまで毎週登場人物の暴力を見て「やっぱり杉元は強いなー」とか言って喜んでいたので、いつの間にか共犯にさせられてるわけだ。

しかし殺人の扱いが変わっていくのは、作劇上当然なのかもしれない。今後の展開を素直に考えると、ストーリーは終盤に向けて登場人物同士の殺し合いに収束するのが必定だからである。変態殺人鬼が出てきたので倒しましたよ、次回へ続く、という流れはいつか終わる。我々がこれから目の当たりにするのは、これまで親しみ、その人間性や魅力を確認してきた人物の死である。殺人や死の意味が変わらないはずがない。一応書いておくが、生命の重要性に差があるという話ではなく、慣れた存在が永遠に失われることによるインパクトという、あくまで主観的な話である。

なんとすでに最新話ではキロランケが死にかけており、さらに主要人物に重傷者がめちゃめちゃ出ている。首に怪我した者が二人、目を失った者が一人、腕と胸に創傷を加えられた者が一人、頭を殴られ、出血している者が一人。全員がしかも医療施設から遠いと思しき異国の流氷原の上で。大丈夫?死ぬのでは?まだ物語は続くはずだが。


 殺しまくるヤベー奴ばかりの中で、アシリパは「不殺」を重んじている。これはアイヌの信仰によるものらしいが、人間をいたずらに殺めたくないというのは、共同体の中で穏当に生きてる人間なら当然の感情だ。ましてやアシリパはまだ14とか13歳なので、本来なら殺人とか一番近づけてはならないものだ。未成年だよ!

 ただしアシリパの殺人タブーも結構謎だ。父親が殺人犯かもしれないと示唆された時はかなり狼狽しているのだが、惚れた男が殺人犯であることについて彼女が何か思っている節はない。というか杉元が戦時下で殺人を犯した男だと知りながら惹かれてしまったことについての葛藤も見られない。9巻の大量殺戮ではさすがに戦慄していたが。

 なんでだろ?相手が和人で異文化を生きてるから?一応和人の中でも殺人は最悪のタブーなのだが……。

 でも、同じアイヌであるキロランケにも殺人を犯している描写があるし、そもそも彼も戦争帰りだ。従軍していたアイヌがいることも物語中に描かれているのだが、それについては不問なのか?アイヌの中にも「戦争での殺人は殺人ではない」みたいな考えがあるのだろうか……。まあこの辺はいいや。

 実は不殺を誓っているアシリパも、実は最近の連載で人を殺しかけるという状況になっている。これも前述の通り不慮の事故なのだが。やはり、生きてると死は紙一重のところで起きる。悪人も善人もうっかり死ぬし、殺し得る。降りかかる苦しみの前で人は平等だ。

 というわけで、ゴールデンカムイヨブ記だったという話でした。ヨブ記以外のことで長くなりすぎた。