11/21日記(『岡崎に捧ぐ』感想)

 完結した『岡崎に捧ぐ』についてやっと書く。この漫画について、「ミレニアル世代版ちびまる子ちゃん」だという評価をよく聞くが、性質はかなり異なると思う。子供らしい万能感や多幸感に包まれた前半もたしかに良いが、人生におけるなんらかの成果や自分の居場所を獲得しようともがく後半があるのがいい。最後まで読むと、ノスタルジーの箱庭から出て未来を目指す漫画になっている。

 ひとつ、非常に印象的なエピソードがある。三巻でプールに侵入する話だ。人生が上手く進まなくなった主人公は、親友・岡崎を連れて小学校に忍び込む。服を脱ぎ、プールに飛び込み、昔に戻ったようにつかの間のスリルを味わう。そして大人になることを憂う。
 このモラトリアムとプールの組み合わせは『卒業』からの引用だと思う。ベタすぎる表現だとも言えるが、ありふれているからこそ突き刺さる。我々の世代が「量産型」という言葉を用いて揶揄されがちであることを思い出させるからだ。こういうベタさが、主人公たちの青春、苦悩、親友との大切な記憶ですら、どこかで見たような「量産型」なのではないか?と突きつけてくるからだ。
 おそらく著者はそこまで考えてこのエピソードを描いたわけではないと思う。しかし私には、才能にあふれ幸福だったはずの主人公が「特別ではない」存在になっていったことを証明しているように思えてしまった。幸せそうに、だが、どこかで見た絵をなぞるようにして泳ぐ二人に胸が苦しくなってしまう。

 漫画はその後の苦悩を描いている。挫折感を抱えたまま大人になり、苦しむ主人公は親友と決別する。無職から社会復帰するが、世間の理不尽さに再び苦しむ。次々現れる仕事や人生のイベントは、ありふれたものだがひとりの人間を翻弄する大きな波だ。
 この物語には、主人公が夢を追うことに決めて動き始めるという結末がある。これは自伝なのでその後の成功が描かれても良いはずなのだが、漫画はそこで終わっている。物語のクライマックスは、親友と幼馴染が今でも主人公を信じていると告げて背中を押すという、ありふれてはいるが得難い幸福だ。自身の成功ではなく、友情を正面からラストに据えていることが眩しくて羨ましい。

 傷ついていても、欠損を抱えていても、特別な存在ではなくても、生きてくしかないから生きてく。で、たまにそれを支えてくれる人がいる。人生とはそういうものだと思うし、そういうことを書いた話が私は好きだ。