6/29日記(ゲームの物語をいかに消費するか)

 例えば、『ラ・ラ・ランド』『マルホランド・ドライブ』『ワンダーウーマン』あたりの結末が今のものとは変わっていたらどうだろう。駄作になったという人もいればそれこそ望むものだったという人もいるだろう。

 私はゲームがまあまあ好きだが、最近ゲームの物語をいかに消費するかについて考える。
 とりわけ私の好むゲームのプレイ体験は、映画の視聴と似ている。最近のビッグバジェットのゲームは本当にシナリオがしっかりしているし、グラフィックもそれぞれに優れている。カメラワークもすごい。最近だと『ゴッド・オブ・ウォー』が、戦闘メインのゲームだというのになんとワンカットで全部繋いでいる。『バードマン』みたいだ。
 ゲームと映画ではひとつ大きく違う点がある。当たり前だがゲームには双方向性があることで、つまり、プレイヤーがある程度物語に介入できる。その結果、ゲームオーバーみたいなものがありうる。最近のゲームはマルチエンディングで結末を選べることが多いので、少なくともプレイヤーの望む結末に近いものをその中から選びとることができる。結末を何個か見ることもできる。これは押井守が言ってて気付かされたのだが、物語を終わらせないことすらできる。いつまでもサブクエストをやり続けてゲームを終わらせないプレイヤーは確かにたくさんいる。というかオンラインだとほぼそうなるのではないか。「終わらせない」ことが可能だというのは、今までになく新しい体験だ。自分の生を架空の世界に添えている感じがする。

 で、ゲームの中で物語をどのように受け取るべきか考えたきっかけは『デトロイト ビカム・ヒューマン』だ。このゲームの舞台はアンドロイドが人間の奴隷になってる世界で、そのアンドロイド達は徐々に感情を持ち始める。主人公は三人のアンドロイドで、映画でいうグランド・ホテルものだった。
 これはとにかくストーリーが分岐に分岐を重ねていて、選択肢によって大きくストーリーが変化する。私がその中で目指したいと思ったのは、主人公三人の幸福だった。自力で進めるなら指針は「主人公がより良い状態になれるかどうか」ということのみだったと思う。映画や小説だと私はサッドエンドの物語もかなり好むのだが、自分が物語について(完全ではなく)ある程度の主導権を握った時にハッピーエンドを目指したがるのはどういうことなんだろうと考えてしまう。キャラクターに自分を重ね、感情移入してしまうからだろうか?それともゲームの世界ですら悪人になりたくないという倫理観が自分にあるからなのか。
 ただ、自分好みの終わり方というものは難しい。安易にハッピーエンドを目指しても、温い結末になってしまい、物語に意外性もなく、得られるのは安堵だけになりがちだ。
こうなると、結末を選べない映画のように、やはり物語には逆らえない神がいた方がいいのだろうか?