6/1日記(ハン・ガン『ギリシャ語の時間』)

 読む本がないので、ハン・ガンの『ギリシャ語の時間』を再読した。誰か本を勧めてほしい。
 『ギリシャ語の時間』はめちゃくちゃ暗い気分になる作品で、人生の詰みが確定した主人公二人の物語だ。二人の境遇は似ている。それぞれ愛する対象を失い、身体に進行性の障害を抱え、家族もおらずに年老いていく途中だ。そして彼らにとって言語は特別であるようだ。

 それを私は理解できる。現代では使われていない古代ギリシャ語を、遠い外国で学ぶ意味を。言語は他者に何かを伝えるだけのものではないと思う。思考の道具であり、自己を定義するものでもあり、それ自体が美しい作品でもある。
 とはいえやはり言語が重要な理由はコミュニケーションだという原則は消えないし、ラストシーンの描写、あれはセックスというよりは身体的言語でのやりとりなのだと思う。人間の身体のあやふやさや弱さも繰り返し描写されるのだが、結局言語もあやふやで弱いものに過ぎない。だがそれが必要なのだし、それを携えて手探りのコミュニケーションをし、生きるしかないわけである。

 どうでもいいが、行ったことないので私は韓国を知らない。したがって、想像の中の街は歌舞伎町のイメージや攻殻機動隊に出てくるアジア風の街並みのキメラのようにどうしてもなってしまう。